こんばんは、Manachanです。この春休み、うちの子供たちはマレーシアで過ごし、すっかりリフレッシュして、明日(4月6日)から、新学年になります。
これから小学校の新5年生になる娘ソフィアも、明日は元気に登校班で行くことでしょう。親として、感無量です。この子の場合、日本の学校に慣れず、数年にわたる紆余曲折がありましたので…
ソフィアは、5~6歳の時期をオーストラリアで過ごし、日本の幼稚園年長にあたるPrepと、小学1年生にあたるGrade 1は、現地の学校に行っていました。それから日本に帰国し、1年生の3学期で合流しました。
オーストラリアから、日本へ。劇的に環境が変わります。言語環境も英語100%から日本語100%に変わりますし、それ以上に、学校生活のスタイル自体が全然違います。
オーストラリアの小学校では、机や椅子などを使わず、子供たちが先生の周りを取り囲むように座って授業を受けたものです。1クラス20人ちょっとなので、先生が子供一人ひとりに気を配れるような環境でした。また、宿題などはなく、教科書ノートは教室に置きっぱなしでした。
それが日本の学校に来ると、子供たち全員が、机や椅子を先生の方に向けて、姿勢を正して授業を聞く。そして、皆が一斉に同じことをやる。宿題は毎日出て、教科書ノートはランドセルに入れて持ち運ぶ毎日…
どちらが良いとか悪いとか、そういう価値判断は抜きにして、余りの環境変化に、幼いソフィアは戸惑い、なかなか適応できずにずっと苦しんだのです。
2年生の時は、とにかく、宿題拒否。時には3時間、私たち親が、あの手この手で宿題やらせようとしても、頑としてやらない。そして3年生の12月、ついに、不登校になり、時には1週間、ずっと学校に行けない日々が続きました…最悪な頃に書いた日記がこれです。
それから後が、長かったです。ソフィアは、どちらかといえばパパっ子なので、私が毎日、2時間目か3時間目に、ソフィアの気分が乗った頃に学校に連れていく。それから仕事に行く…
サラリーマンしてたら、こんなことできませんが、幸い、当時の私はすでに気楽な一人社長になっていたので、時間の融通はききます。その代わり、午前11時より前の商談やアポイントメントは一切入れられないし、物件確認や役所調査も11時以前は無理という、仕事的には制約の多い日々でした。
4年生になると、ソフィアの状態も少しはマシになってきましたが、まだまだ不登校は続きます。
不登校で勉強が遅れるソフィアの将来を心配する妻と、どちらかといえば楽観する私。教育上で意見が合わないことも多々ありました。当時は夫婦仲も、極めて不安定でしたね。娘の不登校でストレス溜まりますからねえ。
でも、ソフィアにとって幸いだったのが、担任の先生に恵まれたことです。3年と4年を担任してくれた男性教師は、ソフィアの良き理解者で、陰に陽に、サポートしてくれました。私もこの日記に書きましたが、
「世の中、いろんな人がいる。君の良さが分からない人、悪いことばかり目につく人は大勢いる。でも、分かってくれる人は必ずいるんだ。〇〇先生もその一人だよ。」
「〇〇先生のような人は、大事にするんだぞ。」
また、4年のクラスに、仲の良い女の子の友達が5人ほどいたのも幸いしました。毎日、1時間目から学校に行けるわけではないけれど、下校時には一緒に遊んだりして…徐々に、学校が楽しい場所に変わってきたようです。10月からは、週一回、区の通級指導教室に通うようになり、そこの先生も良き理解者になってくれました。
そして、12月も終わりに近いある日のこと、
ソフィアが、自分から、登校班で行くようになった!!
その日から、ソフィアは3か月の間、登校班の皆勤賞。一時間目から問題なく登校できるようになりました。そして、宿題も自発的にやるようになり、とにかく、親も先生もびっくりするほどの成長を遂げています。2月3月頃には、先生方と話すなかで、こんな言葉が出るようになりました。
ソフィアちゃん、5年生になるのが、楽しみですね。
そう、「次の学年に進むのが、楽しみ」・・・この言葉が自然に出るようになる日のために、私も妻も、これまで、辛抱強く頑張ってきたのです。
そしてこの子は、親の予想や期待を超えるスピードで、しっかり、着実に成長しています。これまで何年間も、暖かく見守ってくれた先生方や、近所の皆様にはもう感謝の言葉しかありません。
ここは日本の東京、江東区東陽町という場所。子供を育てる環境として、ベストなのかどうか、いろんな意見があることでしょう。ただ、どんな環境であれ、周囲の大人や地域の教育力を信じ、自分を信じ、そして何より我が子の成長を信じて、試行錯誤しながら、前に歩み続けていくこと…それは、「孟母三遷」するより、もっと大事で尊いことだと思います。