2023年 1月 の投稿一覧

流山おおたかの森が本当に森だった頃…

千葉県の「流山おおたかの森 」 。2005年 にTX(つくばエクスプレス)が開通して、アキバまで最速25分で直通できるようになったこの街は、いつしか湾岸タワマンの劣化版みたいな分譲マンションが建ち並び、二子玉タカシマヤ(玉高)の下位互換みたいな「おおたかの森SC( ショッピングセンター)」で買い物する子育てファミリーが笑顔で闊歩する、21世紀の意識高い系ベッドタウンになりおおせた。隣の「柏の葉キャンパス」という、これまた意識高そうでドン引きしそうな片仮名駅とともに、今では「TX沿線の勝ち組駅」と呼ばれてるんだそうな。

とはいえ、いくら意気がっても、ここは吉祥寺でも横浜でも湘南でもない。アドレスが川崎市になる武蔵小杉でさえない。所詮はチバラギ、首都圏裏街道の立地。アザケイ(麻布競馬場)の小説で軽くDisられ、いじられるまで、 「流山おおたかの森」が首都圏ワイドで話題になったことはなかったと思う。

この「流山おおたかの森」と「柏の葉キャンパス」の一帯は、この地域で育った俺にとって、夏休みの格好の遊び場だった。TXが通る前は、広大な森と畑しかなかった。純真な小学生だった頃は、クワガタやカブトムシ、セミをとりにいった。そんな俺も中学生になると純真ではなくなり、森に捨てられた「エロ本」「ビニ本」をあさりに行くようになった…

流山おおたかの森、以前の住所は「流山市十太夫(じゅうだゆう)」という、江戸時代の農民みたいな地名だった。一応、東武野田線の線路は通っていたけど、豊四季駅と初石駅の中間あたり、住宅地が途切れて雑木林が続くあたりが十太夫と呼ばれていた。そういえば「森のレストラン」とかいう、地元の有閑マダムがお茶しに来る、ちょっとしたイタ飯(死語)を出す店が十太夫にあったが、今は取り壊されて、跡地にはたぶん長谷工のマンションが建ってると思う。

今、おおたかの森はTXの駅と東武野田線の駅が両方できたから便利だ。そうそう、野田線は愛称「アーバンパークライン」なんだそうな。東武本社はこの名前で呼ばせたいようだけど全然定着しなくて、地元では「アーパー線」という頭悪そうなあだ名がついてる。おおたかの森住民は、地元の「なんちゃって玉川タカシマヤ」でなければ、TX快速乗って25分でアキバに行くか、アーパー線乗って5分先の柏に行くか、買い物の選択肢がいくつかある。

ところで、アザケイの小説読んで、初めて「流山おおたかの森」を知った人もたぶん多いと思う。彼の表現が、言葉のチョイスがあまりにリアルで秀逸で、生々しくて、笑ってしまう。俺らの地元は、東京の人からこう見られていたのかと‥‥もう笑うしかないです。


「流山おおたかの森という、ニュースでたまに聞く、しかし得体のしれない千葉の街に下世話な興味を抱いているらしく」

「おおたかの森は東京ではないと思います。何時間かかるんだろう、と調べてみたら案外近くて、新御徒町でつくばエクスプレスに乗り換えれば40分くらいで着くんですね。いくつかの川を渡り、車窓はどんどん田舎臭くなってゆき、丸の内や表参道とはまるで表情の違う、秋を知らせるように毒々しく赤く色づいた木々がいくつも通り過ぎてゆきました」

「駅を出てビックリしました。大型商業施設を過ぎれば、すぐに板みたいなマンションがみっちりと建ち並ぶ風景。その隙間を、二子玉マダムのジェネリック品みたいな何人ものお母さんがベビーカーを押して歩いている」

「私の愛した彼のあのダサさは、奥さんがこの街で安く手に入れた品々で完全に拭い去られ、彼はそれと引き換えに、この街の代替可能な無数の部品のひとつとして、この街で大量製造されるキャンベル缶みたいな幸せを啜っているように見えました。選ぶことを放棄したものたちが歩む、幸せに至る一本の平坦な道」

…ま、そうなんだろうな。俺らの地元は、首都圏では地価水準が安い、土地はいくらでもある。快速停車駅の駅近でもない限り、3000万円台で新築ファミリーマンションが余裕で建つ。マンションのグレードは、可もなく、不可もなく、今ふうに見えればそれでいい。駅前に「なんちゃって都心風」の新しい商業施設建てて、量産品とジェネリック品で満たしておけばいい。あとは保育園とペット病院と、「さくら水産」「塚田農場」級の飲み屋街さえチャッチャとつくっとけばいい。それだけで、何万人の新住民が呼び込める。

「東京カレンダー」 「湘南スタイル」みたいなセレブ雑誌の世界とは一切無縁、ホンモノの上質なんて要らない。だって「おおたかの森スタイル」なら、平均的なサラリーマン世帯の収入で十分実現可能だから…キャンベルスープ缶でよければ、ユニクロでよければ、眼鏡市場でよければ、マンション購入を機に新調したファミリーカーが野田ナンバーのホンダFITでもよければ、高校に上がった娘が柏の駅前で髪をパープル系に染めてくるのを許容できれば、この街で幸せを手に入れるのは難しくない。

あ~あ、小市民。それでも幸せ♪ 俺ら、流山市民。

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首都圏人の心~東京人になれなかった男の物語

(麻布競馬場の短編小説集「この部屋から東京タワーは永遠に見えない」を読んで感動して、自分でも一つ書いてみました…)

長くて辛くて不条理な客先仕事の一日が終わり、メトロ千代田線の赤坂駅から610円の片道乗車券を買い、江戸川の都県境を超えて我が家に戻ってきたのは、22時を少し回ったところだった。

つい数か月前に買った築13年の中古マンション。柏駅西口徒歩5分、一階には「お仏壇のはせがわ」がドカンと鎮座し、すぐそばにコカコーラの自販機がある。そこでいつもの「マックスコーヒー」(別名ちばらぎコーヒー)を買い、激しく甘い、茶色い汁をすすりつつ、いま千葉県に居ることを実感する。こんなもん毎日飲んでたら糖尿病になるぞと心の中で自戒する俺は、いつしか30歳の誕生日を迎えていた。

29歳10ヶ月で初めて手にしたマイホームの前に、国道6号線が通り、すぐそばに「日本橋まで29km」の道標がある。俺はこの場所から徒歩2分の柏市あけぼの4丁目で生まれ、3丁目の「おばあちゃん家」まで徒歩3分。両親宅へも歩いて15分。まさにスープの冷めない距離に家を買った、ある意味親孝行な息子かもしれないが、

俺が偶然生まれ落ちた場所、この柏という東京近郊の街を故郷として自然に受け入れるようになるには、南西方向、約30km先にある東京という巨大で光り輝く存在に憧れ、親子ともども本気でぶつかり、そして東京の巨大な力で跳ね返された、そのプロセスを経たからなんだと思う。

俺の父は、先祖代々、柏や流山界隈で暮らす地主一家の出で、実家は比較的余裕のある暮らしだった。1960年代には珍しく4年制大学に行かせてもらえて、卒業後は都内勤めのサラリーマンになった。母の一族は東京の牛込界隈から戦争で柏に疎開してきて、仕立屋、ほねつぎ、墓石屋、ホテルシェフ、ケータリング、歯科技工士など、手に職系の商売で全員が柏に残って頑張ってる。菩提寺もお墓も柏にあるし、こっぱずかしいけれど「千葉の渋谷」とか呼ばれてる、県内有数の栄えた商業都市で、とりあえず満ち足りてるから誰一人として柏を離れようとしない。

ただ俺の両親が少し違っていたのは、思い切り背伸びして、東京で暮らして日本最先端の文化にふれさせよう、東京で子育てしてみようとしてくれたことだ。俺が生まれた頃の柏は、人口がいまの3分の1もない草深い田舎町で、男子生徒は丸刈り強制、運動できる奴と喧嘩が強い奴が尊敬されるマッチョな価値観が支配する土地だったから、今でいう「意識高い系」だった両親はより良い教育環境で子供を育てたい、そして自分たちも人生の一時期、日本の首都•東京で暮らしたいと、一念発起した。俺がまだ5歳の幼稚園児だった時に、

柏からピックアップトラックに家財道具を積んで、国道6号を東京方向へ走る。遠目に高層ビル群がみえて歓声があがったんだけど、それは都心じゃなくて錦糸町の駅前だった。ようやく落ち着いた先が、文京区小石川5丁目、7階建のヒルサイドマンション。播磨坂近く、お茶大キャンパスから歩ける、東大赤門へも自転車ですぐ行ける、そして何より文京区屈指の人気を誇る窪町小学校区という、絵に描いたような文教地区。その代わり、柏の庭付きの家と比べて余りにも小さな2DK、40平米くらいの中古マンションだった。、

1970年代当時2DKでも月額家賃9万円もするヒルサイドマンションには、全国から文京区へ教育移住してきた家族が暮らしていた。俺らの住んでた2階は5世帯だけだったけど、長野県から越してきた一家と、遠く九州・長崎県から越してきた一家が住んでて、どちらも俺より2歳ほど年上の小学生の男の子がいた。みんな名門・窪町小学校に通って、小5くらいから塾に行かせて、中学校から筑駒、あるいは高校から開成に入って、目指すは東大現役合格。その勝率を高めるために、文京区の環境で勉学させることを選んだ「お受験」家庭だった。

地方から出てきて文京区でお受験やるには、相当な収入と資産背景が必要だと、大人になってから知った。当時の物価を考えれば高額な家賃に加え、塾、習い事、私立の学費、寄付金に、お受験家庭同士のお付き合い…その出費を継続するのは、一介のサラリーマンの父には到底無理だった。結局我が家は、文京区暮らし2年半で、有り金をすべて使い果たして、俺の小学2年の二学期で柏に戻っていった。その時点で、俺の故郷は東京文京区ではなく千葉県柏市になることが確定した。頑張ったけど結局、「資産格差の壁」に阻まれて東京育ちになれなかったんだ。

柏に戻ったら、お受験の文京区とは似ても似つかない光景が広がっていた。住宅地に畑の混じる通学路(トイレ我慢できなければ畑で野グソできる)、広い校庭、男の子も女の子も先生も休み時間は真っ黒に日焼けするまでドッジボールに興じる日々、学習塾はロクになくて、男の子が小学生で塾に通ったら軟弱だと馬鹿にされた。クラスで運動神経の良いヤツは神だった。5年生の時、柏で初めてゲーセンができて、校則で禁止されていたが皆ガン無視。先生の放課後見回りで、クラス44人中、女の子も含めて30人以上が現場で摘発された…

そんなワイルドな環境で育っても、俺は不思議なことに、学業成績では文京区育ち組に負けなかった。経済的に無理なのに頑張って文京区に住んだ両親の執念が俺に乗り移ったのかもしれない。高校受験は、まぐれで学芸大附属に合格して、世田谷区下馬まで、柏から片道1時間半かけて通学することになった。毎日6時半に家を出て、北千住と中目黒で乗り換えて、東横線学芸大学の駅から15分歩いて登校…俺の人生で、あんな長距離通学・通勤をしたことは後にも先にも無かった。

学芸大附属での3年間は、俺にとって黒歴史なので余り語りたくないんだけど、そこで痛感したのは、「東京都心育ちと自分との、絶望的なまでの育ちの差、経験格差」だった。たとえば、音楽。柏に居た時、俺は合唱コンクールでクラスのピアノ伴奏やる位、自信があったけど、学芸大附属に来てる東京都心や山の手住みの生徒は、ピアノ弾けばプロかと思う位、凄い奴がたくさんいたし、バイオリンとかチェロとか習ってる奴も大勢いた。あとは親の仕事の関係で海外に住んでた生徒も多く、英語やドイツ語、フランス語を流暢に話せる奴も相当数居た。柏ではまず、お目にかかれない種族、聞いたこともない生活スタイル。

当時、母は高校の授業参観に行きたがらなかった。世田谷から遠路はるばる柏に帰ってくるとぷんぷん怒って「もう、二度と行かない!」と。他のお母さんたちと全く話が合わないと。「何よ、あの人たち。アメリカのニュージャージー州に住んでた同士で盛り上がりやがって。全然話についていけないじゃないの!」。当時のクラスで、唯一、母と話が合ったのは、小平市の花小金井に住んでたS君の母親だけだったらしい。ま、あの辺は一応東京都だけど23区じゃないし、柏と似たような生活レベルなのでしょう。

柏で育つって、何なんだろう?東京23区の都心・山の手に育つのと、何が違うんだろう?たぶん「機会格差」っていうのは余りないと思う。柏は一応、首都圏。電車一時間で東京都心に出られるし、交通費も大してかからない。自宅から東京の学校や塾に通うことは可能だし、東京都心での面接が多い就活でも柏に自宅があれば何とかなる。その点、下宿やホテル暮らししなくちゃならない地方出身者に比べれば恵まれた境遇にあるとは思う。

その代わり、「資産格差」と「経験格差」が凄いと思う。東京都心に住むだけの資産と持続的な収入がある人の「当たり前」は、柏で育つ人とは全然違う。幼い頃から、子供にどれだけのお金をかけて、どんな経験をさせられるか、東京都心でどんなコミュニティに属し、普段、誰からどんな情報を得ているのか?…地理的にはわずか30㎞しか離れていないのに、中身をみれば全くの別世界に暮らしているといえるのかもしれない。

俺は、柏を故郷とする、首都圏人。東京人にはなれなかったけれど、かといって地方出身というわけでもない。親のルーツと、職業と、資産背景を使って精一杯、東京ゲームをたたかった結果、結局、柏というちょうど良い場所に落ち着いた。その偶然を、祝おう。首都圏人であることを誇り、これからの人生を首都圏人として生きていこう。東京都心、山手線内側の世界に憧れなければ、この街に住み続けてもいい。無理しなくていい。柏に居て、何の不自由もないのだから…

そう考えて、俺は20代最後の年に、1950万円で柏のマンションを買った。生まれた場所から、徒歩2分。ギャグみたいに近いけれど、これでいいんだ。それが俺の人生なんだ。マックスコーヒーの甘ったるい液体を飲み干し、突然吹いてきた筑波颪(おろし)の寒風を避けるように、俺は「お仏壇のはせがわ」の横からマンションの入口に入っていった…

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