2017年 4月 の投稿一覧

中国で長生きできると思う理由

おはようございます。Manachanです。昨日の午後北京に着いて、ホテルで10時間ぐっすり快眠、寝不足解消できました。

昨日は思わぬ長旅になりました。北京空港混雑のため、飛行機は1時間半遅れ、入国審査や通関でも行列に並び、相変わらず人、人、人…で快適度の欠けた状態はいつもの中国だなと。

 

ただ、インフラの近代化はすごいペースで進んでますね。近未来鉄道のような地下鉄空港線と、今や市内のどの路線もホームドア当たり前の状態に。

飲料の空き缶、空き瓶の回収機なども出てきてるし…ここで回収してバーコード読み取るとポイントが付与されるシステム。相変わらず日進月歩の中国です。

 

そして、ついにこの場所に帰ってきました。

北京展覧館 (北京動物園の隣り)

 

我が日本のブースも、超一等地に東証1部上場が2社並び、壮観になりました。他国に負けてないぞ!

 

一年前の4月に来た時には、日本からの出店は「東京の新築ワンルーム業者」と「千葉県の仲介転売業者」の二社だけ。人通りの少ない場所でひっそり出店して客もあまり来ませんでした。我々はあれから1年かけて、いろいろ試行錯誤を重ねた結果、人通りの一番多い場所に一部上場ブースを二社持ってきて、日本のプレゼンスを高めることに成功。実に感慨深いです。

 

ところで、超近代的な施設の中に入っても、中身はいつもの「中国」でした。ブースに入るや否や、訳わからんいきなり「売り込み」攻勢が…

 

・商談テーブル屋のおばさん
・客引きサービス手配士のガラ悪いお兄さん

 

売り込み方も強引なんだよなあ。そして、すぐ金の話が出てくる。

 

「このブース、なんでテーブル一つしか置かないの?ひとつ持ってきてあげるからお金払いなさい!」
 
「あんたのとこ、客引きはどうしてんの?俺らに頼めば30元でいくらでも客連れてくるよ!」

 

彼らは、違法業者。我々日本ブースは、不動産フェア実行委員会に正規の料金を払ってテーブル等手配してるし、客引き行為はそもそもルール違反だし(でも皆やってるけど‥)

 

彼らと丁々発止してると、かつて、中国で暮らしていた時の感覚がよみがえってきます。誰もが自分の都合だけ考え、言いたいことを言う社会。当然、衝突も多くて、日々是バトル・喧嘩の連続。でも、思い切り声を出して自分の言い分を主張する時、「俺はいま、生きている!」という実感がわいてくるのです。

 

中国で、ストレスなんて、溜まりません。だって、言いたいことを我慢しませんもの。思う存分、大声出せますもの
 
あと中国人の良いところは、ねちねち陰湿でないところ、商談にならなければ悪い後味もなく話が自然消滅するだけだし。

 
中国の、ガサツでサバサバしたところが、大好きなんだよなあ。
 
どうして、中国と相性がいいんだろう。私の血液型がB型だからなのか?

 

私、中国でなら、元気で長生きできると思う。

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日本人の宗教をどう説明するか?

こんにちは、Manachanです。今朝、羽田を発ち、中国は北京首都空港に飛んできました。これから5泊6日、北京で多忙な日々が待っています。でもメシは楽しみ。

私は仕事柄、ヨーロッパやアメリカにも行くしASEAN圏にもオーストラリアにも行く。月の半分は日本の外に居るので、中国は一応海外とはいえ近いし気が楽ですね。

世界中いろんな地域に行けば当然、それぞれの土地の文化、言葉、慣習、食生活に触れる機会があるし、私の母国•日本についてもいろいろと聞かれます。日本と異なる様々な社会、文化で育った人達と信頼関係を築き、新たな価値を創造していくのが国際ビジネスですし、私もその最前線の現場に立って日々暮らしている自負があります。

ところで、地球上の人類の大部分は、何らかの「神」「宗教」を信じているそうです。行き先の地域によっては私も、「あなたの宗教は何ですか?」と真顔で質問されることが結構な頻度であります。

日本の日常生活やビジネスの場で宗教の話題になることは稀だし、ここ中国でも似たようなもの。日本や中国で、日常的に宗教的実践をしている人の割合はたぶん少ないし、自分が特定の宗教を信仰していると意識する機会も一般的には多くないでしょうが、

東アジアを離れて違う文化圏に行くと宗教が当たり前の話題になることがあり、そこで不用意な答えをするとこちらが望まない誤解をされることがあります。

たとえば信心深い人の多いカソリックの国に行って、宗教を聞かれて「どの宗教も信じてない」と答えると、彼らの文化では「無政府主義者か虚無主義者」みたいに解釈されることがあります。つまり、彼らからみれば極端な(ある意味危険な)思想の持ち主だと…

そんな誤解をされることは私の本意ではありません。私は、「お正月は神社で初詣、墓参りや法事は近所のお寺で、クリスマスはケーキでお祝い」みたいな、日本や中国でよくある「マルチな宗教観」を持ってる一般人に過ぎないわけで、

少なくとも「一般ピープルが当たり前に何らかの宗教を信じる社会で、それを敢えて否定していかなる神も信じないと決めてる」タイプの人間ではないのです。

相手が信心深い国の人の場合、彼らの文化コンテクストの基本を理解しつつ、自分に嘘をつくことなく言うなら、たとえば、

Well..I am a kind of Buddhist and Shintoist (not very practicing though)
「ま、仏教と神道かな(あまり真面目じゃないけどね)」

みたいに答えた方が無難かと。少なくとも「信教がない」と答えるよりは要らぬ誤解をされない分、便利な気がします。

私、最近はASEAN圏、特に上座部仏教圏のタイ、ミャンマー、カンボジア、ラオスに仕事で行く機会が増えています。これらの国々は日本企業の進出拠点としてもポピュラーな上に、特にタイ人は大勢が旅行客として来日するので身近ですね(注.同じ東南アジアの「ベトナム」は上座部仏教圏でないので上記カテゴリから外れます)。

上座部仏教圏では、日本あたりと比べて宗教的実践をする人が多い印象です。男性が成人すれば当たり前に出家したり、街の人が毎日托鉢僧に食べ物を与えたり、住む家のない人が寺院に保護してもらったりと、「仏教」が日常生活のなかに深く根づいているように見えるし、彼らをみていると、「私たちの住む日本は果たして仏教国なんだろうか?」と自問自答したりします。

タイ人からは、日本は同じアジアの仏教国で、仲間みたいに思われてるようです。アニメ「一休さん」が昔からタイで大人気ですし、日本に旅行行くなら(一休さんのいた)「安国寺」に行ってみたいというタイ人の女の子もいたなあ…

確かに日本には全国に仏教寺院がたくさんあるし、神社と共にお寺は日本人の暮らしに無くてはならないもの。その意味では日本は仏教国といえるでしょうし、そんな文化に包まれて育ち、真宗のお寺に墓参りや法事に行ってる私も、(特に意識はしてませんが)はたからみれば立派に宗教的実践をしているのかもしれません。

あと、東京に遊びに来た外国人を、真っ先に連れていく先も浅草寺とか成田山新勝寺あたりになりますね。特に宗教を意識しなくても仏教寺院を日本の文化、誇りだと思ってるからそうするわけです。

ただ、タイなど上座部仏教圏の出身者が日本で暮らすと、日本人の宗教的実践の薄さや、仏教が日常生活に余り身近ではないことにすぐ気づきます。あと、日本の僧侶が肉食妻帯することもかなりエキゾチックに感じるようです。つまり、日本は同じ仏教国だと思っていたのに、実情はかなり違うと…

巨視的にみると、インド文明をベースにした、宗教的気分や実践、戒律を重んじる東南アジアの上座部仏教圏と、中国文明のフィルターを通して仏教を受容した日本(+朝鮮、ベトナム)では、仏教の仕組みや社会文化的な位置付けが大きく違うのだと思います。

紀元前6世紀インド東部で生まれた仏教が、北に伝わりアフガニスタンを経て、漢土に伝わったのが紀元前後。その過程で、少なくとも宗教実践面は大きく変質したと思われます。例えば東南アジアで当たり前になってる午前中の托鉢は、気候の厳しいインド北辺に伝わる頃には形骸化したようです。

仏教が漢土に伝わると、当然、「中国化」します。「衆上(一般ピープル)の救済」を重視する大乗系仏教が、「超越的存在としての神よりも人間や歴史に関心が強い」中国の風土で受け入れられた結果、少数の僧侶が寺院で厳しい戒律に耐えるインド的な宗教テイストが薄まり、世俗化や大衆化が進んだのだと思います。分かりやすく言うと、仏教はもちろん存在するんだけど、社会慣習と一体化して、あまり宗教として意識されないタイプの仏教に変質していった…

古代の日本はインドから仏教を直接移入したのではなく、中華風味になった仏教を、漢字とともに移入した。それが日本古来の神(国津神など)と矛盾なく融合して、数々の宗派が生まれ、いろんな経緯を経て今に至るわけです。

中国、朝鮮、ベトナム、そして日本…東アジア圏は、広義の仏教国とは多分言えるんでしょうけど、国民レベルで宗教的意識や実践がどちらかと言えば希薄な「信仰心が余り篤くない仏教の国」…それが私の雑駁な理解ですね。それは同地域の人々が、中国文明の影響を長期間に渡って受け続けてきた歴史と無縁ではないのでしょう。

話が長くなりましたが、私は多くの日本人、東アジア人と同様、ある意味節操のないマルチな宗教観を持って暮らしています。それを英語で表現すると、やはり、こう言うしかないですね。
I am a kind of Buddhist and Shintoist

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北京語一極集中の時代に

こんばんはManachanです。東南アジア4か国、10泊11日の出張から無事帰国しました。最初の6日間は、タイ、ラオス、ベトナムを、夜行バス含めて忙しく飛び回り、最後の4日間はマレーシアで家族と一緒にのんびり過ごしました。

 

マレーシア・クアラルンプール(KL)は、春休みに家族で過ごす場所としては、すでに定番です。羽田から直通で行ける、都会の利便性がある、ホテル代激安、現地物価安い、親子で楽しめる施設が多い、英語が通じる…そういった面で、マレーシア以上に条件の揃った場所はなかなかありません。

私がマレーシアを最初に訪れたのは、1992年。それから25年間で、KLの街は劇的に変わりました。

あの頃のKLは、首都とはいえ日本の地方県庁所在地程度の田舎町でした。KLCC(都心CBD)もペトロナス・ツインタワーもまだ無かったし、セントラル駅の西側は一面の森と公園だったし、ブキビンタン(KL随一の繁華街)でさえ百貨店が伊勢丹くらいしかなかった。

 

それが25年経つと、何もなかったKLCCは摩天楼の街に一変、ブキビンタンも百貨店が屏風のように連なり新宿みたいな風景に。セントラル駅周辺にも高層ビル林立…ずいぶん変わったものです。

 

KLタワー周辺の眺望

 

そして25年の歳月は、人々の話し言葉まで変えてしまいます。今回のブログは、語学ネタで書きますね。

 

日本で大学生が選択する第二外国語、今はおおむね「中国語」が一番人気で、二番手が「ドイツ語かフランス語」のようですね。

 

私が大学生だった1990年頃は、「フランス語」か「ドイツ語」が人気トップで、「中国語」は三番手か四番手(スペイン語と良い勝負、ロシア語、韓国語より少し上)みたいな位置だったと記憶しています。私のいた大学では、確か

 

フランス語 9クラス
ドイツ語  8クラス
中国語   4クラス
ロシア語  1クラス
(※スペイン語や韓国語は履修できませんでした・・・)

 

当時と比べると、20数年経って、中国語の地位が躍進したことがよく分かります。中国が世界の経済大国になり、日本との関係も深い。ビジネスで使える、就職に役立つという意味で、ドイツ語やフランス語、スペイン語あたりと比べても一歩抜け出した感がありますね。

 

あと、外国に行かなくても、日本での日常生活のなかで中国語を聞く機会も結構あります。東京は特にそうですね。私が住んでる東陽町とか木場あたりだと、街を歩いてて中国語が耳に入ってこない日はありません。フランス語やドイツ語だと、さすがにここまで身近ではない。

 

「英語の他に、学ぶとすれば中国語」という時代は、もうしばらく続きそうです。

 

中国語の国際的地位が上がると同時に、国内外で、広東語、福建語、上海語など、いろんな方言の使用頻度が減って、「北京標準語」に集約される動きが目立ちます。

 

例えばマレーシアでは、中国系住民の話す言葉が、もともと広東語や福建語だったのに、今は北京標準語一色に変わった印象。この動きはマレーシアに限らず、シンガポールでも、欧米各地の華人社会内部でも、同時進行で起こっています。

 

1992年、私が初めてマレーシアに来た時は、広東系マレーシア人の友人に水先案内してもらいました。当時の私は北京語を話せましたが、「マレーシアの華人社会で北京語はあまり通じない」と言われ、わざわざ「広東語の基本フレーズ」を覚えていったものです。

 

今、マレーシアに行く場合は、華人社会とのコミュニケーションは北京語できればそれで充分。逆に若い世代に広東語や福建語が十分継承されていない印象を受けます。
 

マレーシア華人の昼食風景

 

急速に進む北京語化のなか、広東語の牙城といえば「香港」。ここの生活言語は広東語で、旧英領植民地ゆえ英語もよく通じます。20年以上前は大陸中国がまだ貧しく素養も低かったため、香港では北京語自体が馬鹿にされていました。私が台湾で覚えた北京語も、香港で話すと「大陸の田舎者」だと見下されるので、英語で話した方が良いと諭す友人もいたほどです。

 

しかし今日の香港は、びっくりする程、どこへ行っても北京語が通じます。都心や観光地だけでなく、香港ローカルしかいない住宅街の小さな商店に行っても、北京語だけで事足ります。北京語が馬鹿にされる時代はとうの昔に去り、今や香港人が商売するために一生懸命北京語を覚える時代になりました。

 

3年前に、香港で不動産セミナー講演した時のこと。私は広東語できないので、英語と北京語どちらで話せば良いかと現地協力会社の人に聞いたら、北京語の方が分かりやすいのでお願いしたいと言われました。話し終わった後、会場からの質問を受け付けると、7割方は流暢な北京語で話してきました。今や香港でさえ、北京語だけでほぼ全て事足りる世界になったわけです。英語も結構通じますけど、今や北京語の方がよく通じますね。

 

言葉とは、人間が世界を認知するツールであると同時に、コミュニケーションの手段でもあります。より多くの人に話が通じ、キャリアアップや商売の発展につながる言葉に、需要が集中する。その結果、マイナーな方言が廃れて標準語に集約される…それも言語のひとつの生態なのでしょう。
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