旅日記

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コロナウィルス激震!北米出張日記(2020/3/9~3/17)

こんにちは、Manachanです。

大変な事態になりましたね。コロナウィルス禍に揺れる全世界。恐怖と相互不信、先行きの見えない閉塞感に苛まれる人々とビジネス、ネット社会と情報過多が、不安に拍車をかける時代。

極めつけは、他国との行き来を遮断する欧米政治リーダーの決断。世界の株価は連日大暴落し、一気に奈落の世界同時不況に進みそうな今日この頃。ここ1~2週間に限っていうと、世界的なコロナ騒動の震源地は、紛れもなくアメリカでしょう。

東アジアで発生したコロナウィルスが、アメリカ大陸に飛び火。国内感染者数が日々、倍々ゲームで激増して、全米各地が恐怖と狂気に覆われ「激変」した、まさにその時、私はアメリカ・カナダへ8日間の出張をしていました。この体験は、一生忘れないでしょう。51年間生きてきて、ここまでエキサイティングな業務出張は、後にも先にも無いかもしれない。

 

私の出張コースを、アメリカ各州の感染者数マップと重ねあわせてみました。

 

その出張中に起こったことを、年表ふうにまとめました。一つひとつが歴史的瞬間、にわかフォレストガンプになった気分だな…

 

3月9日(月)日本出発、アメリカ入国

午後の成田空港は、葬式のように静まり返っていました。第一ターミナル、広大な北ウィングに人影まばら。これまでに見たことのない異様な風景でした。乗客よりも職員の方が多いんじゃないか?

確かに、いまコロナウィルス騒ぎの渦中にある日本、サラリーマンは自宅勤務、学校は軒並み休校、ディズニーもUSJも閉園、大相撲は無観客、センバツ甲子園も中止…仕事とはいえ、このタイミングで海外に行く私は余程の変わり者なんでしょうな。そして、チェックイン後が凄かった…

 

セキュリティチェック:客は私ひとり

出国手続き:客は私ひとり

出国後の書店;客は私と白人男性のふたりだけ

 

出国はできたけれど、アメリカに無事入国できるんだろうか?日本から来たということで感染が疑われ、別室に連れ込まれて隔離・検疫されるかもしれない。それで、普段より多めに文庫本を買いました。本さえあれば、万一アメリカで隔離されても暇つぶせると思って…

当時は客観的にみて、東アジアにあって中国に近い日本の方が、アメリカよりは感染リスクが高そうだというのが一般的な評価だったことでしょう。

でもアメリカに上陸して、認識が変わりました。数字を見るかぎり日本以上に感染が広がり、空港ガラガラ、飲食店もガラガラ、道路も普段よりガラガラ、学校も軒並み休校、イベントは中止の嵐、ホテルは激安セール、ショッピングセンターの棚からトイレットペーパーも体温計も缶詰も消える…それは日本だけの現象ではなく、アメリカでもカナダでも全く同じ状況だったのです。

私を乗せたデルタ便は、太平洋を越えて、アメリカ西海岸・オレゴン州ポートランドに到着しました。入国手続きで、係官から2~3の質問を受けました。「ここ2週間で中国、イラン、イタリアに行ってないか?」、「何しにアメリカに来たんだ?」、「いつまで滞在する予定なんだ?」等々…当たり障りのないように簡潔に答えると、意外なほどあっさり、入国を認めてくれました。

これで一安心…というのも、私が入国できないと、全米各地で予定している商談や視察が実施できなくなりますから。無事入国できた旨を、ラスベガスやヒューストン、アイダホ等で待ってる人たちにFacebookで伝えて、私は晴れて、ポートランドの土を踏みました。

奇しくもその日、ニューヨークのダウ平均株価が、一日2123ポイントも暴落し、サーキットブレーカー(取引停止)が発動されました。アメリカの歴史に残る「激動の一週間」は、すでに序章がはじまっていたのです。

 

3月11日(水)緊迫のカリフォルニア、トムハンクス・ショック

アメリカ入国して1、2日目。ポートランドと、アイダホ州ボイシーでの日々は、比較的平穏でした。いま振り返ると、アメリカ全土がコロナウィルスで大騒ぎする直前、「嵐の前、束の間の静けさ」だったのだと思います。

特に当時のアイダホ州は、感染者が一人も出ていませんでした。隣のワシントン州ではシアトル圏を中心にすでに約400名の感染者と、20名の死者が出ているのを横目に、「俺らの州は内陸だし、外国の連中は来ないし、コロナなんて大丈夫だよ」と、皆さん涼しい顔をしていました(注.その数日後に、アイダホ州でも感染者が確認されました…)

そのアイダホから飛行機でカリフォルニア州サンノゼに入ると雰囲気が一変。カリフォルニアは当時すでに、ワシントン州、ニューヨーク州に次いで、全米第3位の感染者数が報告されている州だったのです。空港に降り立ってすぐ、「日本と同じ緊迫した雰囲気」を感じました。

サンノゼといえばシリコンバレー、GAFAの本社が集中するMountain ViewやPalo Alto周辺のフリーウェイは、平日朝の時間帯は大混雑するはずなのに、今回に限って、まるで日曜日のようなガラ空き…Apple本社のビジターセンターに来ると、駐車場は悲しいくらいにガラガラ。ITエンジニアの皆さんは、軒並み自宅勤務しているようでした。

ショッピングセンターに行くと、日本と同様、トイレットペーパーはじめ紙製品は軒並み売り切れ、体温計も売り切れ、マスクの在庫ゼロ…落胆する私たちの横を、トイレットペーパーを10ロール位、カートに山積みした女性が歩いていきました。

その午後、海辺のサンタクルーズで物件視察をしていると、私のiPhone端末にニュースが入ってきました。なんと、「トムハンクス夫妻、コロナウィルス感染が判明」ですと…。

いまにして思うと、多くのアメリカ人をして「コロナウィルスやばい」と思わせる出来事が、皆が知ってる映画俳優トムハンクスの感染だったのだと思います。これで誰もが「他人事ではない」と思った…まさに歴史の決定的瞬間。若き日のトムハンクスが、アメリカ現代史の決定的瞬間を生きた男「フォレストガンプ」を演じたのは、偶然ではないと思いました。

あの瞬間を境に、アメリカは変わってしまった…その夜、トランプ大統領が電撃的に、大陸欧州26カ国からの渡航制限措置を発表したのは多分、「アメリカ国民の空気を読んで…」のことだったのだと思います。

 

その翌日、NYダウ平均は、2352ポイントという史上最大の暴落となり、わずか3日前の記録を更新。2回目のサーキットブレーカー発動。米国内の感染者数も、1000人、2000人、3000人…と、日々、倍々ゲームで増えていき、もう後戻りはできなくなりました。

 

 

3月15日(日)間一髪!薄氷のカナダ入国

カリフォルニアのあと、ラスベガス、ヒューストン、ワシントンDCと回ってきた私は、最後の目的地、カナダのトロントを目指す際、同国に無事入国できるのかどうか、気をもんでいました。

奇しくも2日前(3月13日)、カナダのトルドー首相の奥様にコロナウィルス感染が判明。首相自らが、自己隔離して暮らしていたのです。国のトップが自己隔離する位なら、早晩、我々外国人の入国を制限するでしょう。あと日本のいくつかのサイトには、「カナダに入国はできるけど、日本国籍者には隔離・検疫など行動制限がかかる」と書いてありました。

 

「カナダ行くのどうしようかなあ…隔離されるリスクがあるなら、アメリカから直接日本に帰国する方がマシかもなあ…」と一瞬思いましたが、当時確認できた情報によれば、カナダ政府から自己隔離要請はあっても強制的ではなく任意との話だったので、「行っちゃえ!案ずるより産むが易し」と思い、数日前の成田と同じくらいガラ空きのワシントン・ダレス国際空港から、予定通りトロントに飛びました。

トロントの入管では、数日前のポートランドと同じく、簡単な質問を2~3受けて、冷静に受け答えすると入国スタンプを押してくれました。その次の通関でも文句言われる覚悟をしてましたが、こちらもお咎めなく、カナダ入国成功!

入国日付は、3月15日。奇しくも、トルドー首相が米国人を除く全ての外国人非居住者のカナダへの入国禁止措置と発表する、わずか1日前でした。まさに間一髪のタイミングで入国。つまり、国境を閉ざす寸前のカナダの姿を垣間見れたわけです。

 

翌3月16日、私はトロントでの仕事を終え、利用客居なくてガラガラのピアソン国際空港から、午後2時45分発の羽田行きのエアカナダ便に乗り込みました。その搭乗時刻わずか15分前に、トルドー首相の入国禁止措置のニュースを聞きましたが、その理由の一つが、私が今いる場所「トロント・ピアソン空港の職員にコロナウィルス感染者が確認されたから」だそうで…。

折しもこの日、隣国アメリカのNYダウ平均は、2997ポイントという史上最大の暴落となり、3回目のサーキットブレーカー発動。もうこうなると、ブレーカーなんて無いも同然だよね。

 

出張を終えて…

いま私は、機上の人。カナダ~日本の長いフライト中で、あと数時間で羽田に着きます。

これまで書いたように、感染リスクのある場所で、入国制限や隔離、フライトキャンセルのリスクをかいくぐって、ギリギリな出張をしました。

私の体調は、主観的には完璧です。ここ2年ほど、風邪ひとつひかず元気そのもの。先ほど、アメリカで買った体温計で測ったら、96.3F(35.7℃)だったので発熱はしてません。

ただ、感染のリスクを疑う人も多分居ることでしょう。求められれば、家族や社員を守るために自己隔離も甘んじて受け入れます。本音では隔離が必要だと思わないけれど、でも自分だけの人生じゃないし、皆様に支えられて生かしていただいてる以上、必要な配慮はしますし、国や職場のルールは守ります。

あと言うと、私は大胆な行動をする割に、手洗い、消毒、うがいなどは普段かなり気をつけています。外出から自宅に帰る時は必ず検温してますし、その際の手洗いには使い捨ての紙を使い、さらにはゴミ箱も他と分けています。

日本に帰ったら、たぶん当面、海外には行かない(行けない)でしょう。私の意思や健康状態とは関係なく、今やアメリカもヨーロッパもアジアもオセアニアも、残念ながら、入出国に支障を伴いそうな国ばかりになってしまいましたから…

「ウィルスに侵された恐怖の世界、一体どこ行けば安心なの?」。そう聞かれたら、私は次のように答えます。「安心は、私の心のなかにあります」と…いま私の心は、池塘の水面のように静かで清らかで、惑わされません。不安にもなりません。激動する「いま」この瞬間を、心から楽しんで生きています。なぜなら、

「私は投資家だから」…投資家とは、自分の負えるリスクの範囲で、収益を最大化しようとする人のことです。今回の北米出張は、周りに心配かけたけど、でも自分がリスク負えると思うからやった。これまで海外の旅先で幾多のアクシデントを克服した経験値があるから自信もあった。で、リスク負って行動したその先には、ポートランドで、ラスベガスで、ヒューストンで、現地の方々の素敵な笑顔に出会うことができた。次の商売につながる動きもできた。本当に、思い切って出張に行って良かった。

コロナウィルス問題は、いつかきっと、人類が解決します。それまでは私の商売も含めて大変っちゃ大変です。でもコロナ禍の只中にある私たちがやるべきことは、コロナ後の世界をイメージしつつ、まさに激動する「いま」この瞬間を楽しみつつ、自分が今やれること、やるべきことに集中することではないでしょうか?この一週間で激動したアメリカ・カナダの「いま」を現地で垣間見て、その一瞬一瞬がとても新鮮で楽しかった…そんな風に生きていれば、心豊かに生きられる。大丈夫、何とかなりますよ。

 

コロナビールで乾杯!ウィルスなど、笑い飛ばしてしまえ…

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海の向こうで見つける意外な故郷(ふるさと)

こんにちはManachanです。一年の約3分の1を海外で過ごす私、2019年もまた外遊の季節がやってきました。今のところ2月から6月まで毎月、海外出張の予定が決まっています。

いまアメリカのシアトル国際空港で乗り継ぎ中で、これから当面、旅先からの情報発信が続きます。

最近は欧米出張が多いのですが、私は滞在先で、エキゾチックなものばかり見ているわけではありません。逆に、一瞬「ここは日本?」かと錯覚するような不思議な感覚を味わうこともあります。

これまで見たなかで一番不思議だったのは、「街並みや食べ物、人々のルックスは全く違うのに、自然環境だけが日本に酷似している」アメリカ東海岸のノースカロライナ州です。

同州は東京とほぼ同じ北緯35度に位置します。同じく大陸の東岸にあり、明確な四季があって夏は蒸し暑く、秋は時々台風が来て、冬は天気が良く、気温は朝晩0度、昼は10度くらいで雪は年に数回降るだけという、関東平野部そっくりな気候。桜(ソメイヨシノ)が植えられていれば、開花時期も東京とほぼ同じです。

気候が同じだと植生も似てきます。ノースカロライナの州都ローリー近郊をドライブして、特に森に入る時、私の育った千葉県、特に北総台地を走っているような錯覚を覚えます。

当地のハイウェイを走ってると、ちょうど千葉県内「東関東道の大栄IC周辺」みたいな感じだし、

ハイウェイを外れた田舎道を行くと、「八千代市の島田台から印西市に抜ける県道」あるいは「白井市のカンナ街道」そっくりな、緑の里山景色が広がります。道行く車が右側通行であることで初めて、ここが千葉県じゃなくてアメリカであることに気づかされます。

私は2005年3月22日に、長期出張でノースカロライナの土を初めて踏んだのですが、ローリーの国際空港に下りる時に感じたのが、「土の色と木々の色が成田空港周辺そっくりなこと」でした。

3月下旬といえば、千葉県ではシロツメクサ、オオイヌノフグリ、ムラサキケマンなど春の野草がそろそろ顔を出す頃ですが、ノースカロライナでも同時期に、同じような野草が顔を出すのにも驚きました。

一瞬、「(千葉の野山でとれる)セリとかタラノメとか、食べられる野草ないかな~」と思い、野山に出て探しましたが、さすがにそれは無かったですね。

ノースカロライナで暮らすと、4月、5月と、季節が進むごとに、木々の緑も鮮やかさを増してきます。日に日に濃くなる草いきれの匂いに「千葉の初夏」を感じたものです。6月に入ると、州内に点在する湖で泳げるほど、水温も上がってきます。

9月に入ると、時々大西洋を北上してくるハリケーン(台風)のニュースが飛び込んできます。11月を過ぎると木々も赤や黄色に色づき冬の声が聞こえてきます。時々、寒波が来てマイナス5度以下になりますが、それも冬場、千葉の北総台地を吹き抜ける筑波おろしみたいなもの。大して雪降らないから皆ノーマルタイヤです。

気候温暖なノースカロライナはゴルフ天国で、ローリーから大西洋の海に向かう途中に「ゴルフ場銀座」っぽい場所がありますが、それも千葉県に似てますね。もっとも広いアメリカのこと、土地の使い方は日本より随分余裕ありますけど…

国際不動産ビジネスの最前線で働き、出張も多い私。それでも今なお、ある程度の素朴さを保ったキャラクターで居られるのは、穏やかな千葉県の自然のなかで育ったおかげだと思っていますが、それはノースカロライナで育ったとしても多分同じことでしょう。

ここまで「千葉」を感じさせる自然環境なのに、ノースカロライナには千葉県内に溢れてるような「美味しいもの」が余りなくて、外食してもiHop以外はぶっちゃけ「不味い」ので、私はアジア食材店で米や野菜買って自炊してました。

街を歩いてもアジア人が少なくて珍しがられるし、ショッピングセンターは巨大だし車なしで街歩けないし、マクドナルドのコーラがやたらでかいし、やっぱりここはアメリカでした…

同じ気候だけど、やっぱり日本の方が住みやすいな。でもノースカロライナは地震が無いのが良いかも。あと、不動産投資するには良いところだと思います。

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イギリス~この国と文化のかたち

おはようございます。Manachanです。私は数日前まで、英国ロンドン近郊のセントアルバンス(St Albans)という美しい街にいました。驚くべきことに、この街は古代ローマ時代以来の2000年の歴史を持ち、当時は英国(グレートブリテン島)のなかでロンドンに次ぐ第二の都市だったそぅです。

現在、英国の主力民族であるアングロ・サクソン族が、欧州大陸からグレートブリテン島に渡ってくるはるか以前、先住民(ケルト民族)が支配者ローマ人に抵抗して戦った地が、ここセントアルバンス。

あれから2000年経って、大都市ロンドンの通勤圏ベッドタウンになった今も、街中いたるところに、ローマ時代の大聖堂や石積みの橋などの遺構が残っています。それだけでなく中世、近代、現代の建築物や道標、エンブレム、郵便ポスト等が街中に存在し、今なお現役で頑張っています。

 

 

海の向こうから訪れる私たちにとって、英国が今日みせる景色は、とても魅力的です。

この国では、古い街は古い街らしい落ち着いた佇まいをみせ、大都会ロンドン内にある各地域でさえ個性豊かな歴史と風情に溢れています。そして、真っ白な羊が草を食む緑の田園風景は他のどの国よりも美しい。

大陸欧州と違って戦災や自然災害による破壊が少なかった分、昔のものがよく残っています。その点は島国・日本にも近いのかもしれませんが、日本の農村によくある新建材の家みたいなものは少なく、荘園(マナーハウス)や茅葺き屋根の家とか水車小屋など、昔ながらの良さが残っています。

 

一方で、英国・アングロサクソンの文化は、「新しもの好き」で、情報発信能力に優れています。今なお、ビートルズとかハリーポッターとかマンチェスター・ユナイテッド等、世界中に影響力あるコンテンツを生み出し続けています。

それ以前の時代も、議会制度、郵便、鉄道、金融システム、株式会社と近代企業経営、サッカー、ラグビー、クリケット、ポップミュージック…英国人が始めた様々な仕組みが、世界中に広まって、人々の暮らしを楽しく豊かにしています。

なぜ、英国は古いものを多く残しながら、新しい仕組みやトレンドを生み出す力を持っているのか?英国文化を源流にもつ国・オーストラリアで暮らしていた私の仮説はこうです。

 
「アングロ・サクソンほど、親と子の関係や成人同士の関係が対等な社会は他に類例を見ない。多分それが、独自の文化創造力につながっている」

 

オーストラリアで暮らして驚いたのですが、この社会では、長幼の序とか、先輩・後輩みたいな感覚が皆無に近く、成人すれば、たとえ20歳と50歳であろうと対等、という雰囲気でした。

親子の関係にせよ、誤解を恐れずにいうと「お互いにため口をききあう」みたいなフラットな関係で、特に子供が成人すれば、その意志は個人として尊重され、親の意向を押し付けることは少ない。

こんな社会だからこそ、「親の世代はともかく、俺は俺の好きなようにやるよ」となる。その結果、世代ごとにトレンドが生まれる。それが、事実上の世界共通語(リンガフランカ)になった英語とともに世界中に広まる…

 

一方で、「なぜ、英国では古いものがよく残るのか?」というと、それも、アングロサクソンのフラットな親子関係が影響していると思います。

この社会では、子供世代は自分の好きなことをやる。でもって、親の世代が残したものは、良い意味で「放っておかれる」のです。

親世代が子供世代に対して、古い価値観を強圧的に押し付けるような社会では、力関係が逆転した時に、親世代の残したものを全否定したり破壊したり、みたいな負のパワーが生まれがちですが、

アングロサクソンでは、(少なくとも近現代においては)その押し付け自体が少なく、基本「自分の好きなことをやりなさい」という社会だから、親世代が残したものをあえて破壊したいという気持ちも生まれない。

下の写真にみるように、100年以上は経っていると思われるレンガ造りの住宅にモダンな店舗ができたり、隣の古い家に高さを揃えるかたちでモダンな近代集合住宅が建ったりするのは、英国ではありふれた風景です。

 

そういう歴史を繰り返してきたからこそ、今日の英国では、古い時代から遺されたものが、重層的に存在して、モダンなものと自然に共存していると思います。

日本はアジアのなかでは、奇跡的に、英国と似ている面の多い社会だと思いますが(島国、古いものがよく残る、実は新しもの好き…)、でも日本と大きく違うのは、英国は万事、「あまり無理しない」ことだと思います。インフラ整備も、ライフスタイルも、日本の都市部ほどせかせか急がず、ゆっくり、無理せず…そんな緩い空気の溢れた国。

英国のそんなところが、世界中の旅人を魅了するのだと思います。

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柄にもなく金沢文学散歩&不動産

こんにちは、Manachanです。いつもご愛読ありがとうございます。2017年大晦日のブログ更新になります。

私がつい4日前、12月27日に買ったばかりの金沢市森山町の町家は、地元的には実は結構すごい物件だったようです。金沢三文豪の一角、徳田秋声の姉の婚家だということは知ってましたが、私はあまり文学に縁のない、ゼニカネ勘定大好きな不動産事業者ゆえ、その文学的価値については十分気づいていませんでしたが、蓋を開けてみれば

 

・買って2日後に、北國新聞の記者さんから連絡が来て、電話取材を受けた!

・年明けには、「由緒ある町家の命脈をつないだ東京の投資家」という文脈で新聞記事になるそうです

 

あまりの急展開に、自分でもびっくり。とはいえ自分で判断した不動産売買の社会的意味を知ることは大事だと思い、急遽、同物件が出てくる徳田秋声の短編小説(随筆?)「町の踊り場」をAmazonで取り寄せ、読んでみました。私が古典文学作品を読むなんて、高校以来、30なん年ぶりのことです。

以下は、私の率直な感想。文学好きの方が聞けば笑っちゃうでしょうが…

 

・最初読んだ時は、「ブログみたいな文章だな~」と思った。また、「地元・金沢や人々に対する作者の距離感と冷めた眼が面白いなあ」と感じた。

・二回目に読んだ時は、「姉の死をめぐる、人間模様や風景の描写がすごくリアルだなあ~」と感じた。

・でも、やっぱり一番印象に残るのは、最後に出てきた「踊り場」(昭和7年当時、金沢唯一のダンスホール)の情景ですね。

 

徳田秋声にとって、61歳の時に世に出した「町の踊り場」は、それに先立つ10数年の不遇の時代を一気に挽回する「起死回生の一作」となり、作家として円熟の晩年を送ることができました。いま読んでみると、この作品が今なお多くの人に愛されている理由が、何となく分かる気がします。

 

でも不動産屋的にいうと、「町の踊り場」に出てくる、4つの場所を地図にプロットしてみる方が面白い。

1)姉の婚家(現住所:金沢市森山町1-5-22、当時は高道町75)…昭和7年(1932年)8月26日に、秋声の次姉・太田キンが亡くなった部屋で、葬礼がしんみり行われた場。2017年12月27日、私が代表をつとめる資産管理会社で購入。

2)秋声が鮎を食べにいった料亭(現住所:金沢市尾張町1-7-2、元「料理旅館まつ本」)…現在は駐車場。

3)兄の居宅(現住所:金沢市瓢箪町7-6)…秋声の異母兄・正田順太郎の旧宅で、秋声の金沢滞在中の帰省先。築100年を超え、存続が危ぶまれたが、2015年セカンドセンス社が買い取り、「カフェ&カルチャー、町の踊り場」としてオープン。

4)ダンスホール(金沢市下新町、並木町尾山倶楽部3F)…昭和7年(1932年)以前から同13年(1938年)まで営業したダンスホール、現在は駐車場になっているそう。

 

各地点間の距離は、十分、徒歩で回れるくらいの範囲内にあります。

1)から2)まで…徒歩12分くらい
2)から3)まで…徒歩15分くらい
3)から4)まで…徒歩12分くらい

冬場の降雪で足場の悪い時や、夏の蒸し暑い時期を除けば、年を通して、快適に散歩できるコースになると思います。私も、春とか初夏とか秋とか、季節を変えてじっくり散歩してみたいと思います。

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中国短期出張で現地アプリを使う方法

こんばんはManachanです。4日間の中国上海出張から帰ってきました。

今回は中国人富裕層&投資家向けの不動産イベントに参戦してきましたが、いつ来ても凄いと思うのが、彼らの出国意欲の高さ。欧米諸国の居住ビザつき海外不動産商品が、相変わらず多いですね。

以前から人気だったアメリカ、カナダ、オーストラリア等のビザは条件が厳しくなったので、今は南欧〜東欧の後発EU加盟国ビザとセットの商品が多い。どの国も金に困っているらしく、「30万ユーロ以上の不動産買ってくれたらビザ取れるよ」、「我が国では25万ユーロでok」みたいな安売り競争をやっています。また、米国ビザを取るための近道として「カリブ海諸国のパスポート」とのセット商品も結構な数あります。いずれも、日本人には想像し難い、中国ならではの商品ラインアップですね。

経済成長の続く中国、大都市は近代的に整備され、なかなか快適で便利な環境になりました。まだ突っ込みどころは多いとはいえ、それでも私からみて、「いま上海に住めるんなら十分恵まれてるじゃん」、「日本や欧米に移住したって、ぶっちゃけ、上海とそう変わらんぞ」と思うんですが、ま、違う考えもあるのでしょう。

彼らが海外で暮らしたいのとは逆に、私は中国に来たら中国人のように便利に暮らしたい。特にやってみたいのは、「モバイル決済でキャッシュレス生活」。

今や世界一のモバイル決済先進国となった中国。この国では、たとえばこんなことができます。

– レストランからスーパーから、街の安食堂に至るまで、何でもスマホでバーコード読み込んでピッと、即時支払い。

– 同僚と2人で食事して、お勘定が80元だとしたら、まずスマホでピッとお店に80元払い、すかさず40元を同僚の口座にピッとスマホで送金。小銭要らずのモバイル割り勘。

Only in Chinaな究極キャッシュレス生活、何だか近未来のデジタルライフみたいで楽しそう〜。俺もやってみたい〜。日本でも欧米でもまだ実現してないことが中国では当たり前にできるのです。

これらはアリペイ(支付宝)やWechatペイ(微信支付)と呼ばれる、中国の銀行口座と連動した即時決済サービス。バーコードを読み込んだらデビットカードみたいに、銀行口座から代金が引かれ、同時にお店の口座に代金が入る仕組み。日本や欧米と違ってクレジットカードがベースとなっておらず、カード使用料や年会費、銀行手数料もかからないため、いま中国で爆発的に広まっています。

この超便利なアリペイやWechatペイ、中国に住む中国人なら使いやすいですが、出張に来た外国人にはかなり敷居が高いです。最低限、次の二つの関門をクリアしなければなりません。

第一関門:「中国の携帯電話番号」が必要。それには中国内の住所が必要。

外国人にはいきなり難題ですね〜。さすがに滞在先ホテルの住所と部屋番号だけで携帯SIM買えないので、中国在住の友人に頼んでSIMゲットしました。

面倒ですが、でも中国の携帯電話番号があるとないのでは、利便性が大違い。たとえば、街中のスターバックスやマクドナルドのWiFiを使いたくても、今はどこも「中国携帯番号に認証コード飛ばす」システムになってて、外国携帯番号やメールアドレスは使用不可なんです。

そして、中国のスマホユーザーが皆使ってる便利なアプリ、「滴滴出行」(タクシー配車アプリ)、「モバイク」(レンタル自転車アプリ)、「高鉄票務」(中国新幹線予約アプリ)、「航旅縦横」(航空券予約アプリ)、「花生地鉄WiFi」(中国6大都市の地下鉄WiFiアプリ)などは、いずれも初期設定で中国携帯番号を使った認証が必要なのです。

 

中国のアプリでレンタルバイク使って新幹線予約できればかなり便利

実際問題、これらの国産アプリ使えないとかなり不便です。ある意味中国は世界最大のガラパゴスで、FacebookもLineもGmailも使えない国。タクシー呼びたくてもUber使えないから滴滴出行使うしかないし、中国人が皆、滴滴出行を使ってタクシー呼ぶから、今や街中で流しのタクシーなんて拾えないのです。新幹線乗るのだって、高鉄票務でオンライン予約できないと、駅で大行列に並んで人民元現金で買わざるを得ないのです。

私は今回、中国携帯番号を得たことで上記のアプリを全て使えるようになり、中国ライフがとても便利に楽しくなりました。

今回導入した中国製アプリの数々

しかし、これだけではまだ、「中国人並みのモバイル環境」を手にしたとはいえません。まだ、アリペイやWechatペイの「スマホでピッと支払い」、「割り勘した金を即時送金」が実現できてないからです。中国でオンライン決済するには当然、

第二関門:「中国の銀行口座」が必要。

これ、出張者にはなかなかの難題です。中国には銀行たくさんありますが、中国銀行(バンクオブチャイナ)みたいなお堅い銀行だと、中国の居留証がないと口座つくれません。地方銀行(華夏銀行や天津銀行)ならその点緩いですけど、英語や日本語が全然通じませんから、口座開設に中国語能力が必要です。

今回の出張で、とりあえず天津銀行で口座開設に成功しました。今アリペイ、wechatペイの設定をしていますが、いくつかの問題に直面しています。たとえば、

アリペイの銀行口座登録には、身分証番号が必要ですが、スマホアプリで登録するとシステムの制約上、中国人民の18桁の身分証番号が必須項目になっており、私の日本パスポート番号では通りません。次にアリペイのPCサイトで本人認証という手も試しましたが、天津銀行の口座はまだ登録できないよう(いずれもヘルプデスクに問い合わせ中)。

Wechatペイも含めて、これからマニアックな試行錯誤を続け、近いうちに必ず、中国人のように「何でもスマホでピッと即時決済」ライフを実現しますっ‼︎

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海外旅行で現地物価は分からない

こんばんは、Manachanです。オーストラリアから帰国して、2日目。

今年、東京の夏は長雨で涼しかったようですが、私の帰国以降はクソ蒸し暑い(もとい、東京の真夏らしい)日々が続いてます。ま、昼過ぎの35℃サウナ状態でもガンガン出歩いてますよ。暑ければ水たくさん飲めば良いんですから…

今回は、「海外の現地物価」という話題で、かる~いノリで書きますね。

日本から海外に旅行出張等で行く時、現地の物価が日本より高く感じたり、安く感じたりしますよね。物価高く感じるのは例えばハワイとかオーストラリア、スイスや北欧あたりでしょうか。逆にマレーシアとかタイ、トルコとか行くと安く感じたりしますね。

有名なのが、例えばオーストラリアでコーラのペットボトルが4ドル(350円)するとか、ミネラルウォーターが3ドル(260円)するみたいな話。あるいはニューヨークに行って、朝食のサンドイッチ等で10ドル(1100円)以下が見当たらないとか、チップ20%近く払うと外食が何でも高く感じるとか…

そういう「旅行者の肌感覚」がネットや口コミ等で共有されて、「オーストラリアの物価は日本の2倍以上」とか、「マレーシアの物価は日本の半分から3分の1」みたいな話になるのだと思います。ただ、海外いろんな国に長年住んだ経験からいうと、「旅行者の肌感覚物価」と「現地在住者の生活物価」とは結構な違いがあるものです。典型的なパターンをあげてみると、

1)外食は高いけどスーパーの食材は結構安い国(欧米など)

欧米の先進国で外食すると、日本よりたいてい値段高いし、「吉野家の牛丼」、「幸楽苑のラーメン」みたいな激安外食がほぼないので、外食に頼る頻度の高い旅行者出張者には物価高く感じられるものですが、でもスーパー等で食材をそのまま買うと、実はそんなに高くなかったりします。

欧米では消費税率の高い国が多く、外食には20%とかの消費税がガッツリ乗りますが、逆に基礎食料品の税率は低く抑えられることが多いので、スーパーでパンとチーズとか買って食べる分には、結構安上がりだったりします。実際現地に住んでると、普段はスーパーで買いだめした食べ物を家で食べて、たまに外食して高い金を払う、みたいなライフスタイルが一般的です。外食はサービス業だし、厨房やホールで働く人々にそれなりに良い時給を払うので、それがエンド価格に転嫁されて高くなるんですね。

あと国によっては、「大きなロットで買うと安い」、「こまごま買うと高い」ことがあります。オーストラリアのスーパーでミネラルウォーター買うと、600MLの持ち運び用ペットボトルに入った水より、4Lとかのバカでかくて重い水の方がかえって安かったりします。日本のスーパー・デパ地下みたいな、単身サイズの弁当、総菜類が余りなくて、小さいパッケージに入ったものをこまごま買うと高くつくのが欧米諸国の通例かと思います。

2)格差社会ゆえ都市中心部と郊外の価格差が激しい国(アジアなど)

私たちが海外に行く時、都市中心部のホテルに泊まることが多いと思いますが、国によっては、都市中心部に富裕層や外国人ビジネスマンが集まり、郊外はローカル庶民の世界ゆえ、両者の価格差が非常に大きいことがあります。新興国・途上国に多いパターンですね。

例えばフィリピン・マニラのマカティとかBGCなど、きれいに整備された都心部でメシを食うと、先進国並みの値段することも珍しくないですが、そこから2㎞離れたローカルの街で安食堂や市場で食えばむちゃくちゃ安いとか、ベトナム・ホーチミンの都心(1区)でヘアカットすると10万ドン(500円)以上するのに、少し郊外の10区とか行くと3万ドン(150円)で髪切れるとか、いろいろあります。

都市内のほぼ同じ場所でも、ホテル内とローカル住宅街とでものすごい価格差があるケースもあります。今年6月、北京の都心(国貿地区)にある高級ホテルで朝メシ食おうとしたら250元(4000円)といわれ「日本より高いじゃん!」。でもホテルを出て3分ほど歩いた住宅街で、中国人庶民にまじってショーロンポー食べたら7元(115円)だったり。その住宅街内で茶飲料を3元(50円)で買った後、ホテルに戻ってコーヒー飲んだら75元(1200円)とか…訳分からん価格差ですね。

3)ローカル言語を理解するかで物価が変わる国

私たちが海外に行く時、日本語か英語で現地の人とやりとりすることが多いかと思いますが、庶民レベルでは英語さえほぼ通用しない国が、世界には多くあります。その国が新興国・途上国だったりすると、「現地語値段」と「外国語値段」が大きく違うケースがあります。

例えばタイのバンコク、世界中から観光客やビジネス客が多く訪れる都市ですが、ローカルの人々はタイ語を話しタイ文字を使い暮らしています。現地人と外国人の間の所得格差もありますので、「タイ語で書かれたメニュー」と「英語や日本語で書かれたメニュー」とで値段が違ったりします。今年5月に行った、プロンポン駅近くの界隈では、ほぼ同じ炒飯を出すのに、タイ語メニューしかない店が30バーツ(100円)なのに、日本語メニューのある店が60バーツ(200円)とったりしてました。

また、先ほど書いた「北京のローカル住宅街の7元ショーロンポー」ですが、メニューも値段表示もない店なので、中国語が話せない外国人がメシにありつくのが難しいですが、言葉ができれば7元で美味しいものを食える、でもちゃんとメニューのある、外国人の入りやすい店で食べると、おそらく12元くらいするのだと思います。

そう考えると、海外旅行や出張で1~2週間行った位で、現地物価が高いか安いかなんて、本当のところは分からないのだと思います。

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南半球チャイナタウン盛衰記

こんばんはManachanです。今日ケアンズは天気が良く、3時間ほどプールで泳いだので体調良いです。今回は、いま全世界で伸長著しい中華系コミュニティと、その象徴「チャイナタウン」の話題で書きますね。

オーストラリア、特に不動産やビジネスの世界では、いま中華系の躍進が目覚ましいです。また移民や旅行客の人数も大いに増え、「東アジア人といえば中国人」という時代が続いています。ゴールドコーストやシドニーの一部地域では、まだ日本人のプレゼンスも多少あるでしょうが、全体の印象としては完全に「中国の時代」ですね。

なにせ、日本人とは人数が断然違います。少なくとも10倍はいるんじゃないかな。オーストラリアの都市部では、商店、銀行、ITの職場、法律事務所…どこへ行っても中国人が大勢働いています。韓国人やベトナム人もまあまあ多く、彼らに比べて日本人は明らかに少ない印象。たとえ「中国人には極力売らない」デベロッパーの不動産を視察しても、モデルルームを見に来るアジア人の客は、ほぼ全員、中国語をしゃべっています。彼らは見に来るだけでなく、ガンガン買います。まじで凄いです彼らのマネーパワー。

不動産バイヤーとしてだけでなく、デベロッパー(開発業者)としての中華系の伸長も目覚ましい。たとえば、私が昔住んでいたシドニーの家のすぐ近所で、いま774戸という大型分譲マンション開発を手掛けるのは、中国・武漢を本拠とするFuxing Huiyu (福星恵誉)グループの子会社Starryland社です。日系も戸建住宅分譲などで頑張っている会社がありますが、中華系みたいに700戸以上の大型プロジェクトやるとさすがに目立ちますね(関連記事:英語中国語)。

ですが、中華系マネーやビジネスの勢力が伸びる一方で、伝統的な「チャイナタウン」は、オーストラリア各都市で寂れる傾向にあるのが興味深いです。その背景を、私の視点で書いてみますね。

 

ところで、ここオーストラリアで、私は日本人なのか中国人なのかよく分からない立場で暮らしています。私は日本生まれ日本育ちで両親とも日本人ですが、妻が台湾出身の華人系オーストラリア人で、彼女の家族を通じてオーストラリア社会と接触した時期が長かったからかもしれません。

今この瞬間もケアンズで、彼女の家族と一緒にいます。今回は子供連れてきているので日本語も使いますが、そうでなければこの家では中国語しか使いませんし、彼らから現地の友人を紹介されても、相手が華人なら中国語、それ以外なら英語を使うだけで、日本語の登場機会がほとんどありません。

 

私が妻と以前住んでいた、シドニー西部の街Parramatta(パラマタ)は、極めてコスモポリタンな街で、地域住民は欧米系白人、インド系、アラブ系、中華系の4大勢力が拮抗していました。この街で東アジアの顔してる人間の約9割が中華系と推定され、あとは韓国系が少々。日本人は見渡す限り居ない環境でした。

この街には中華系商店がいくつかあって、週に3回は買い出しに行ってましたが、「東アジア人=中国人」な街なので、私が入店しても、誰一人として中国人以外とは思ってくれません。店員の話す英語にクセがあって中国語で話した方がラクなので、結局、この店では日本語も英語も使わず何百回も買い物してました。

また、私が住んでいた家は全6戸の共同住宅(タウンハウス)で、オーナーの半分が東アジア系(我が家含めて)、残り半分がアラブ系でした。東アジア系は私を除き全員中国系。管理組合総会やると英語で議事進行したものを、中国語とアラビア語に訳してそれぞれのグループに伝えておしまい…自分の国籍を名乗らない限り、間違いなく中国人だと思われるシチュエーションでした。

 

そんな環境で暮らしていると、別に中国人だって日本人だって、どっちでもいいやあ・・という感覚になります。相手と親しくなれば、当然、自分の国籍を名乗りますし、それが良い会話の発端にもなるわけですが(日本人だと名乗れば、ある意味、アジア人のなかでブランド扱いされます。悪い結果にはなりません)。そこまで親しくない人に対しては、相手の得意な言葉に合わせて会話するだけだから、その結果、中国語使って中国人だと思われても全然構わない、という感覚。

シドニーには3万人からの日本人が暮らしており、私も日系コミュニティとある程度の付き合いがありました。ただ、彼らの主な居住地域と我が家は20㎞離れ、日常的なお付き合いするには遠すぎ、必然的に距離を置いた関係になりました。今考えると、当時の私は、

「交友関係」 中華系6:日系4
「話す頻度」 中国語9:日本語1

そんな環境にいた私。「チャイナタウン」を含む中華系社会の動向は、ある意味「内部の人間」としてよく知っています。

 

オーストラリアの、人口100万以上の大都市中心部には、必ず「チャイナタウン」があります。多分シドニーとメルボルンのチャイナタウンが一番大きくて立派、次いでブリスベン、パース、アデレードと、規模は小さくなりますが、どの街にもあの「赤い楼門」があって、道の両側に中華系めし屋が並んでいます。

ところで、オーストラリアのチャイナタウンは、不思議なことに、どこも衰退気味のようです。

 

・先月、メルボルンに行きましたが、以前、Lonsdale/Little Bourke Street界隈にあって結構栄えてたチャイナタウンの規模が小さくなっているのに驚きました。

・先週、ブリスベンに行きましたが、以前よく行ったFortitude Valleyの中華街が無残なほどに寂れて、行きつけの湖南料理屋もなくなり、空き店舗や日本料理店ばかりが目立つようになって驚きました。

・オセアニア最大級・シドニーのチャイナタウンはまだ勢いを保っているように見えますが、よく観察すると10数年前ほどの隆盛がなくなり、ところどころ歯抜けになっています。

 

これら、大都市のチャイナタウンがどこに行ったのかというと…郊外に移ったんですね。

 

・シドニーでは、都心から南に15㎞ほど離れたHurstvilleに中華街ができて、とても賑わっています。

・メルボルンでは、都心から南東に20㎞近く離れたClaytonのミニ中華街(?)が元気です。

・ブリスベンでは、都心から南東に10㎞ほど離れたSunnybankのショッピングセンター一帯が中華街のようになり、本家Fortitude Valleyをしのぐ賑わいを見せています。

 

背景として、オーストラリア在住の中華系住民のライフスタイルが多様化、現地化したことが考えられます。オーストラリアの都市にチャイナタウンができた19世紀~20世紀前半は、まだ黄色人種に対する偏見も強く、中国系が皆力を合わせて身を立てないといけない状況があったのでしょうが、今は知識労働者の領域に進出する中国系住民も多い。当然郊外マイホーム住まいの者も増えるので、渋滞や駐車場の問題がある市内中心部から、郊外でクルマの便の良いところにシフトしていったのでしょう。

また、市内中心部ほど、オフィスや高層住宅のニーズが高いですから、中華系の個店が高値で買い取られて中高層建物に置き換わる状況もあるのだと思います。

 

あと言うと、言葉の問題も大きいでしょうね。伝統的な市内中心部のチャイナタウンは、どこも香港系の店主が多く広東語が幅をきかせる世界ですが、いまオーストラリアにやって来る人は北京語(マンダリン)話者が圧倒的に多い。その関係で、シドニーHurstvilleやブリスベンSunnybankなど、いま発展中の郊外チャイナタウンは、どこも北京語優勢の世界になっています。

同じことが、日本の首都圏でも起こっています。横浜では日本最大のチャイナタウン(広東語優勢)が健在ですが、最近来日した北京語話者(ニューカマー)によってつくられた、東京の池袋北口や新大久保の方が、どんどん新しいお店ができて勢いが凄いだと感じます。

 

商店主から知識労働者へ、オールドカマーからニューカマーへ、広東語から北京語へ…中華系社会の大きな変化のなかで、チャイナタウンも変容している。それはオーストラリアでも日本でも変わらないのだと思います。

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北京~上海間、新幹線旅日記

おはようございます、Manachanです。中国出張3日目、いま上海・虹橋空港近くのホテルに滞在中。昨日、北京から長駆、1300km以上を新幹線で移動し、上海に来ました。

6月18日、日曜日、首都・北京は気温36℃の猛暑。タクシーで北京南駅へ到着したのが正午12時頃でした。とても立派な巨大な駅舎ですが、ここは中国なので、常に、あふれんばかりの人間がうごめいています。日本だと、JR新宿駅か初詣、縁日でもない限り、あり得ないレベルの人ごみが、ここにはありました。

荷物チェックを済ませてコンコースに入ると、目の前に、自動の券売機がたくさん置いてありました。操作してみると、出発駅や到着駅、出発時刻、座席の等級に応じて簡単に切符買えそうでしたが、よく見たら、中国のIDカードがないと買えない仕様になっており、日本のパスポートしか持ってない私は、あえなく撃沈。仕方なく、巨大な駅舎の向こう側にある有人の窓口まで歩いて、列に並んで買わざるを得ませんでした。

券売機に限らず、今時の中国って、いろんな便利なものがあるのに、外国人訪問者には使えないものが余りにも多くて、歯がゆい。たとえば、スマホにアリペイ(支付宝)の自動決済アプリ入れて、レストランで食ったらスマホでバーコード読み込んでピッ、ビジネスホテル泊まってもスマホでピッ…とても便利なんですが、アリペイに加入するには、中国の携帯番号が必要で、その携帯ひとつ買うにも身分証明がうるさくて、海外からの短期出張者ではなかなか恩恵にあずかれません。

でも、アリペイがないと、結構不便なんですよね。昨日泊まった北京のサービスアパートなんて、クレジットカードの読み取り機がなくて、アリペイか人民元現金しか受け付けないと…私は、人民元現金をそんなに持ち歩かないので、スマホでアリペイのアカウント加入しようと奮闘したんですが、結局、身分証明の壁に阻まれ、撃沈。

昨日の新幹線だって、実はスマホで予約できる便利なアプリがあるんですが、あれも結局、中国の携帯番号にSMSを受信してはじめて予約できる仕様になっています。アプリで事前予約したければ、中国在住の友人に予約取ってもらうしかないんです。

「Google、LINE、Facebookが使えないネット環境」もそうですが、「中国に住んで中国製のアプリだけ使っていれば便利だけど、外国から訪問するとかなり不便」、ある意味、「人口14億人、世界最大のガラパゴス」なのが中国ですね。なんとなく日本と似てますけど、ガラパゴス度合いは、やっぱ中国の方が強烈だな。巨大な国だから、外国に合わせてやり方変えたりしないし、14億人の慣行を変えさせるのはすごく大変だし…距離表示にマイルを使い、客に20%のチップを払わせる独自のやり方を変えないアメリカのお国柄と、中国はよく似ています。

 

新幹線の話題に戻りましょう。北京南駅の有人切符売り場で、私が予約できたのは、「13:40発、上海虹橋行き、窓側二等席」でした。上海までの運賃は、

2等席  553元(約9000円)
1等席  933元(約15000円)
特等席 1748元(約28000円)

北京南~上海虹橋間の走行距離は1318km。だいたい、東京~鹿児島中央間に相当します。東海道・山陽・九州新幹線を使って同区間を移動する場合、通常の指定席で28000円くらいしますので、それは中国での特等席の値段に相当。2等席であれば、「だいたい日本の3分の1」の値段で移動できる計算です。かなり安く感じますね。

 

13:40、北京南駅を定刻に出発した新幹線。中国らしく、いきなり満席、稼働率100%。乗客をみると、北京市内に住んでいるとは思えないような、田舎風の格好、話し方をしているおっさん、おばさんが多数。子供連れも多数…推測するに、沿線の山東省方面から、家族で北京に遊びに来たとか、親戚宅を訪ねてきたような方々なのでしょう。日曜の午後なので、自宅に帰るにはちょうど良い時間帯なのでしょうね。逆に、北京に住んで、沿線地域に観光に行くように見える人は、ほぼいませんでした(※話し声を聞いていれば、北京の人間なのか、山東省あたりの人間なのか、だいたい分かります。以前、私は大連に住んでいました。大連の地元民は、山東省から海を渡ってきた人たちの末裔で、基本的には山東省方言を話します。)

よく考えれば、北京を代表する万里の長城、故宮など観光名所も、来てる客の圧倒的多数は中国人ですもんね。以前は遅い国鉄電車やバスで来てたのでしょうが、最近は懐具合が豊かになって、新幹線で北京観光に来る中国人も増えたのでしょう。

 

北京を発車して、2時間弱、419kmを移動して、山東省の済南西駅に着きました。とても大きな駅で、北京で乗った乗客の大部分がここで降りました。やっぱり、山東省人が北京に行くために新幹線使ってたのね。あと、車窓からみえる済南市街地の大きさにも驚きました。こんなに発展していたのかと…

済南西駅で乗客がほぼ入れ替わりましたが、さすが中国、満席状態は変わりません。私の隣の座席、北京~済南間はスマホばっかりやってる痩せたお姉さんでしたが、済南からは肥ったお姉さんが乗ってきて、南京で降りるまでの3時間、彼女ずっと爆睡していました。

済南からさらに南下すると、江蘇省の徐州東駅で、多くの乗客が乗り降りします。ここは、北京から688km、上海から630kmで、ほぼ中間地点になります。この徐州あたりを境に、沿線の風景が徐々に変わります。「南船北馬」とはよく言ったもので、徐州以北は小麦作、以南は米作エリアであるよう。田畑の風景も南に行くほど緑が濃く、日本(特に西南日本)のそれに近づいていきます。特に、安徽省の蚌埠あたりは山や丘も多く、田んぼの一区画も小さく丁寧に耕され、古き良き日本の原風景を見ているようでした。

 

長江大橋を超えると、南京の大きな市街地が広がります。ここまで来ると、上海まであと1時間20分。南京~上海間は風景がにわかに都市的になり、農地のなかに高層マンションや戸建住宅、工場が混在する風景になります。日本の東海道新幹線の沿線に似てますね。なお、南京南駅で乗客の多くが入れ替わり、ここから先は、上海を目指す短距離利用者の世界になります。この辺まで来ると、乗客が話す言葉も、北京や山東省のアクセントはなくなり、皆さん完全に上海風の話し方ですね。

19時38分。上海虹橋駅に無事到着。北京から5時間58分の長旅、これにて完了♪

 

今回、中国新幹線に乗ってみて、感じたこと。

・北京~上海間を、通しで利用する客は少ない。
・乗客の多くが、1~2時間程度の中距離利用(北京~済南、済南~徐州、徐州~南京、南京~上海)
・客が入れ替わっても、満席状態が常に維持されていた。中国では大都市以外にも、膨大な沿線人口があることが実感できた。
・食べ物や飲み物の売り子が、約3分おきに来る。中国新幹線の車内で腹が減る心配は、まずない。

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中国で長生きできると思う理由

おはようございます。Manachanです。昨日の午後北京に着いて、ホテルで10時間ぐっすり快眠、寝不足解消できました。

昨日は思わぬ長旅になりました。北京空港混雑のため、飛行機は1時間半遅れ、入国審査や通関でも行列に並び、相変わらず人、人、人…で快適度の欠けた状態はいつもの中国だなと。

 

ただ、インフラの近代化はすごいペースで進んでますね。近未来鉄道のような地下鉄空港線と、今や市内のどの路線もホームドア当たり前の状態に。

飲料の空き缶、空き瓶の回収機なども出てきてるし…ここで回収してバーコード読み取るとポイントが付与されるシステム。相変わらず日進月歩の中国です。

 

そして、ついにこの場所に帰ってきました。

北京展覧館 (北京動物園の隣り)

 

我が日本のブースも、超一等地に東証1部上場が2社並び、壮観になりました。他国に負けてないぞ!

 

一年前の4月に来た時には、日本からの出店は「東京の新築ワンルーム業者」と「千葉県の仲介転売業者」の二社だけ。人通りの少ない場所でひっそり出店して客もあまり来ませんでした。我々はあれから1年かけて、いろいろ試行錯誤を重ねた結果、人通りの一番多い場所に一部上場ブースを二社持ってきて、日本のプレゼンスを高めることに成功。実に感慨深いです。

 

ところで、超近代的な施設の中に入っても、中身はいつもの「中国」でした。ブースに入るや否や、訳わからんいきなり「売り込み」攻勢が…

 

・商談テーブル屋のおばさん
・客引きサービス手配士のガラ悪いお兄さん

 

売り込み方も強引なんだよなあ。そして、すぐ金の話が出てくる。

 

「このブース、なんでテーブル一つしか置かないの?ひとつ持ってきてあげるからお金払いなさい!」
 
「あんたのとこ、客引きはどうしてんの?俺らに頼めば30元でいくらでも客連れてくるよ!」

 

彼らは、違法業者。我々日本ブースは、不動産フェア実行委員会に正規の料金を払ってテーブル等手配してるし、客引き行為はそもそもルール違反だし(でも皆やってるけど‥)

 

彼らと丁々発止してると、かつて、中国で暮らしていた時の感覚がよみがえってきます。誰もが自分の都合だけ考え、言いたいことを言う社会。当然、衝突も多くて、日々是バトル・喧嘩の連続。でも、思い切り声を出して自分の言い分を主張する時、「俺はいま、生きている!」という実感がわいてくるのです。

 

中国で、ストレスなんて、溜まりません。だって、言いたいことを我慢しませんもの。思う存分、大声出せますもの
 
あと中国人の良いところは、ねちねち陰湿でないところ、商談にならなければ悪い後味もなく話が自然消滅するだけだし。

 
中国の、ガサツでサバサバしたところが、大好きなんだよなあ。
 
どうして、中国と相性がいいんだろう。私の血液型がB型だからなのか?

 

私、中国でなら、元気で長生きできると思う。

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アジア最後の桃源郷「ラオス」の変化と不動産

こんばんは、Manachanです。2日間のラオス滞在を終え、先ほどベトナムに飛んできたところです。

東南アジア、ASEAN圏内には、タイ、ベトナム、フィリピン、マレーシア、シンガポールなど、それぞれ個性と知名度を持つ国が多数ありますが、そのなかで比較的無名なのが「ラオス」。内陸国、人口700万人余りしかいない、日本との直行便がない…等々、比較的馴染みの薄い国かと思います。

 

私が今回、ラオスを訪れたのは3回目ですが、他のASEANの国と比べると、

 

むちゃくちゃ、田舎な国です。

まじで、笑っちゃうくらい、何もありません。

 

私はラオス~タイ間の陸路国境越えを2回やってます(ビエンチャン~ウドンタニ間と、パクセ~ウボンラチャタニ間)。これをやると、隣国タイとの経済格差が実感できます。

タイ、といってもラオスに接するタイ領は、バンコク首都圏から600km以上離れた「辺境のど田舎」に他なりませんが、それでもラオスから来ると、タイの都会ぶり、物質文明の充実に驚きます。

 

– タイには、何でもある。どんな小さな町にもTesco LotusやMakro(スーパー)がある。コンビニたくさん。

– タイ側の、少し大きな街にいくと、セントラルプラザ(ショッピングセンター)や、環状道路やバイパスがあったりして、ぶったまげる

– 道路の整備状況も、交通量も雲泥の差。タイ側は建物も立派。

 

ラオス人はタイ人と同系統の民族で、人種も宗教も一緒、言葉も近くてお互いに意思疎通が可能。当然、食べ物や生活文化も似通っているわけですが、

屋台ひとつとっても、ラオス側はタイ側ほどのバラエティがありません。店の数が少なく品揃えが貧弱…というのも、ラオス人はつい最近まで、物々交換の暮らしをしていて、食べ物を売って現金化する歴史がまだ浅いのです。

スーパーや喫茶店にしたって、タイやベトナム資本が入ってきたのはごく最近のこと、商業広告も少なく、資本主義の浸透はまだこれから。都市部でさえリヤカーに野菜満載した行商や練炭売りが未だ健在で、日本の昭和30年代頃の懐かしい風景が広がります。

 

 

ラオスの「何もない田舎なところ」が良いという人がいます。その気持ち、私よく分かります。

 

ラオスって、本当に、いい国なんですよ。人が純朴でスレてない。自然も、文化も素晴らしい。このまま永久保存したい位。

ラオスこそ、アジアに残された最後の桃源郷かもしれません。おおよそ桃源郷という言葉から連想されるもの、たとえば、

 

花と緑あふれる美しい山河

幸せそうな人々の穏やかな笑顔

優雅に、ゆったり流れる時間

 

その全てが、ラオスにはあります。言い換えれば、ラオスにはそれしかない、のかもしれません。

「三丁目の夕陽」の世界か。いやそこまでいかない「二丁目の夕陽」が黄金の仏塔を照らし、母なるメコン河に落ちゆく、秘境のような国ラオス。

そこには、「十丁目」に達した日本や、「七丁目」まで発展したタイ•バンコクがとうの昔に失ったものが、2017年の今もまだ残っています。

 

ラオスが、これからもずっと、桃源郷であって欲しいと願う旅人は多い。

しかし、現実はそうなりません。現代はメディアやスマホを通して情報だけは容赦なく入って来ます。ラオス人はタイ語が理解できるので、大都会バンコクのスタジオできれいに着飾った芸能人や、南タイの綺麗な海の風景を写すカーナビ広告を、タイのTVを通して皆が見ています。若い人ほど、自国のどうしようもない田舎っぷりを嘆き、タイやベトナムのように発展して欲しいと願うでしょう。

私はその気持ちを否定することはできません。昔ながらの桃源郷ラオスのままでは、多くの人が近代的な教育や医療を受けられない、田舎から街に出てもメイドやマッサージ位しか働き口がない、といった現実を変えることはできないのです。

 

ラオスはASEANの構成国で、外に開かれた国。海外からビジネスも資金も当然入ってきます。首都ビエンチャンを中心に、これから資本主義的な発展、変貌を遂げていくことでしょう。

とはいえ、ラオスがタイのようになれるのかカンボジアやミャンマーのようなスピードで外資導入して経済発展の軌道に乗るかというと、たぶん違うと思います。

 

ラオスは、近隣諸国と比べるとゆっくりと、静かに、変わって行くのだと思います。プノンペンやヤンゴンに高層ビルが建ち並んでも、土地が豊富で人口の少ないビエンチャンで同じ現象が起こるのはたぶん数年先でしょう。

プノンペンにはボンケンコン、ヤンゴンにはヤンキンという、富裕層や外国人の好むおしゃれエリア、東京でいうところの南青山チックな場所ができてますが、ビエンチャンの南青山が登場するのは、少なくとも5年以上先でしょう。

ラオスよりずっと人口が多くて国力のある、他の国の首都と比べるとビエンチャンはゆっくりペースですが、それでも、飛行機に乗ったことのない、エスカレーターを見たこともない多くのラオス国民にとって、ビエンチャンの今の発展速度は、驚くほどのハイペースなんです。

 

ラオスの首都ビエンチャンは、もはや秘境ではありません。車の交通量も増え、渋滞も発生する、まぎれもない「都市」です。高層ビルも増え、都市住民がマンションに住む時代が、すぐそこまで来ています。

パクセ、サワンナケートといった二線級の都市はまだ高層の建物が皆無に近く、ある意味秘境らしさを残していますが、そこも徐々に近代的に開発されていくでしょう。すでにラオス随一の観光地となったルアンパバーンは言うに及ばず。

ウドムサイ、ポンサリーといった、現状では秘境っぽい山岳地帯の街は、これからどうなっていくんだろう?中国の開発が入って変わっていくのかな?

 

ラオスは、小さくて静かな国。外の世界から見ればゆっくりと、しかし着実に変わっていくのでしょう。これは、不動産投資・賃貸経営の面からすると、そう悪いことではありません。

マレーシアのクアラルンプール、タイのバンコク、フィリピンのマニラ、そしてカンボジアのプノンペンが経験した「コンドミニアム過剰供給」と、それによる「貸せない!売れない!オーナーの苦しみ」。これが、ラオスのビエンチャンに現出するのは、まだ当面先のことだからです。

700万人しかいない小さな国、首都でさえ人口80万で岡山市や熊本市のレベル。地元民の所得水準も低い、外国人の居住人口も少ない、土地の相場も不透明…となれば、海外のデベロッパーが大規模な住宅建設事業に参入するのは難しい。将来はともかく、現時点では地元のプレイヤーしかおらず、ノウハウが乏しいので進み方も遅い。

したがって、物件が完成する時期は予定より当然遅れますが、逆にいうと過剰供給にもならないわけです。たとえばの話、2020年までにビエンチャンで完成予定のコンドミニアムは、それが全部工期通りに完成したとしても、供給数はわずか2000戸程度。3万戸超が一気に供給されるプノンペンとは、状況がまったく違います。

 

ASEANでも後発の国ゆえ、安定資産とはほど遠いですが、それでも、ラオスという国があって、国民が首都ビエンチャンを目指す、人口増加をあてこんで各国のビジネスが参入する限り、住宅の需要は続くし、居住地にいろんな選択肢があるなかで都心の価値は高まるはず。

ラオスという国が好きで、長い目でのんびりと、発展に付き合っていける人であれば、ビエンチャン都心でまともなコンドミニアムを持つのは十分ありだと思います。過剰供給になりにくいのも好材料ですね。

 

ビエンチャンで泊まったホテルの入口横にあった仏様の祠…ラオスより愛をこめて。

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