台湾不動産

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台湾の物価と給料の不思議

 

おはようございます、Manachanです。台湾への日帰り講演出張から帰ってきました。

私にとって、とても思い出深い出張になりました。今回、私が演壇に立った場所は、台北の世界貿易センター(世貿)でしたが、この場所は、今から25年前、台湾への語学留学中に、私がアルバイトに通った場所だったのです。当時、玩具の会社を経営する台湾人の友人がここでブースを出してまして、私は会場設営やサンプル補充などのお手伝いしてアルバイト代をもらっていました。

25年前の台北は、今でいう、ベトナムのホーチミン市みたいなもんで、人々の移動手段はバイクと市内バスしかありませんでした。日々、ものすごい数のバイクが街に繰り出し、空気も悪く、私は排ガスにまみれながら278番のバスに乗って世貿のアルバイトに通ったものです。

今の台北は、地下鉄網が四通八達して、「台北101」みたいなランドマークもできて、大きく様変わりしましたね。

 

講演では、大勢の方に来ていただきました。とても楽しかったです。台湾のみなさんありがとう。

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ところで、ここ20~25年ほど、台湾に足を運び続けて、思うこと・・

台湾の物価は、不思議だ・・

 

なぜなら、

20年前には考えられなかった高級レストランやバーの類がものすごく増えた一方で、庶民の屋台フードの値段は20年前とほとんど変わらない。

 

いまの台北は、一食何千元もするようなオサレなレストランが星の数ほどあって、高度消費文化が花開いています。

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一方で、下の写真のような、屋台フードも健在で、こういう場所では、一食30元とか50元とかで食べられます。この類のメシの値段は、20年前とほとんど変わりません。

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散髪屋も、100元くらいの安いものが多く、これも、20年前とほぼ変わらない感覚です。

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台湾のモノの値段で、20年前と比べて、一番劇的に変わったのは、不動産価格でしょう。留学当時、私が住んでいた台湾師範大学近辺でマンションを買うと㎡あたり9万元と言われてましたが、今では100万元を軽く超えています。20年余りで10倍以上に膨れ上がったのです。

 

逆に、全然上がらないのは、人々の給料。私の留学当時、台湾でサラリーマンやって月給3万元もらえばまあ暮らせると言われていましたが、20年以上経った今でも、3万元以下の月給で働いている人が、たくさんいます。

昨日、台北市内の「カルフール」に食料買い出しに行った時、求人広告が出てましたが、提示されている給料のあまりの安さにびっくりしました。確か、月給2万2000元(71000円)、時給110元(370円)みたいな数字で、「20年前より、逆に下がってるんじゃないの?」と思いました。

で、ウェブサイトを調べたら、台湾カルフールのレジ打ちの給料は、16年前と比べて明らかに下がっているようです。

1999年 25,800元
2015年 21,000元

http://www.cmoney.tw/notes/note-detail.aspx?nid=42309

 

経済統計をみてみましょう。台湾の一人当たりGDPは、ここ20年で2~3倍になっています。私の留学当時は7500USドル位でしたが、今では22000USドルで先進国レベル。

【台湾の一人あたりGDP推移(1987~2016年、USドル換算)】

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台湾の消費者物価も、近年は上昇率がマイルドになっていましたが、それでも、ここ20年で1.5倍くらいにはなっています。

【台湾の消費者物価の推移(2011年=100)】

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これらを総合すると、次の仮説が導き出せるかと思います。

・ここ20年間、台湾の給料や物価が、極端に二極化してきている。

・経済成長の恩恵にあずかった人々は必ずいたはず。不動産オーナー、ビジネスオーナー、サラリーマンでも、ITとか外国語などのスキルを必要とする専門職の給料は上がってきたはず。

・一方で、経済成長の恩恵に全くあずかれなかった層も確かに存在する。単純労働者、社会人経験のない若年労働者などの給料は全く上がらず、かえって下がる傾向もみられる。

 

そう考えると、いま台北で「1食何千元もするオサレなレストラン」と「1食30~50元程度の屋台フード」が共存する理由も納得がいきます。

・何千元の食事代を払える層が確かに存在し、おそらく年々拡大している。

・一方で、50元以下の食事しかできない層も存在し、こちらも多分、年々拡大している。

 

私が講演した不動産博覧会に来て、海外に資産を置こうという人たちは間違いなく前者で、台湾や中国大陸の経済成長の波に乗って資産を増やした人たちですよね。一方で、そういう生活とは全く無縁な、安給料と生活苦にあえぐ台湾人もたくさんいる、ということだと思います。

 

最後に、台湾はすでに、日本と同じく「低成長、デフレ」の時代に入っています。20年前の台湾は、今のフィリピンやベトナムよろしく、年6%以上の成長を続けてきましたが、今では1~2%成長がせいぜいで、3%いけばいい方。中国経済減速の影響もありますが、直近の3四半期は「マイナス成長」かつ「消費者物価上昇率もマイナス」という、明らかなデフレ状態。

【台湾の経済成長率推移(1987~2016年)】

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すでに先進国レベルの所得水準に達し、のびしろが少なくなっているのと、日本以上のスピードで少子高齢化が進んでいること、電子部品以外に高収益を叩き出す産業が乏しく、中国大陸メーカー等との価格競争に巻き込まれやすいこと…これらが、台湾経済の重石となっているようです。彼らの悩みの多くは、日本とも共通しています。

台湾は日本と比べて国内市場が小さく、人口2300万人しかいない上に、月収7万円程度の低賃金労働者が相当数いる状況では、国内消費も盛り上がりにくい。今後は中国大陸やASEANとの貿易や投資で成長を追求していくのか?あるいは衰退を受け入れて、「経済成長しなくても人々がそれなりに豊かに暮らせる」社会を目指すのか?…日本と同じチャレンジに直面するのだと思います。

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台湾、政権交代前夜

こんにちは、Manachanです。現在、家族旅行中。今朝、台湾からタイまで移動し、今はバンコクのコンドミニアムでゆっくりしてますが、今回の日記は、台湾の話題でいきますね。

すでにニュースでご存知かもしれませんが、台湾は1月16日に、総統選挙を控えています。その選挙で、国民党→民進党への政権交代および、台湾初の女性総統「蔡英文」氏の誕生がはほぼ確実視されています(リンク)。その背景について、少し考察してみたいと思います。

 

台湾は、日本と同じく、議会制民主主義をとっています。そしてアジアでは珍しく、欧米に似た「二大政党制」が機能している社会といえると思います。

台湾の人々が、今の日本人と同じ意味で普通選挙権を持ってから、まだ20数年しか経っていませんが、すでに「国民党」と「民進党」の二大政党による、政権交代を何度も経験しています。投票率も日本やアメリカより明らかに高い、7~8割をキープしてきています。

2000年 国民党→民進党(陳水扁)への政権交代
2008年 民進党→国民党(馬英九)への政権交代

そして今年、2016年1月16日の選挙で、民進党への政権交代になれば、今世紀に入って3回目。ちょうど8年毎に政権政党が代わってきたことになりますね。

 

台湾でハッキリした二大政党制になっているのは、「中国大陸」の影響が大きいと思います。狭い海峡の対岸に、台湾と比べて面積200倍超、人口60倍の「中華人民共和国」があり、彼らと同じ言語・文化圏に属している。経済的なつながりも極めて密接。でも政治体制は違うし、軍事的な緊張関係も少なからずある。台湾人からみれば、巨大な隣人のプレッシャーを常に受けながら、

「中国大陸と協調していくか?」vs「台湾独自の路線でいくか?」

これが、台湾社会を運営していく上で一番大事なテーマだし、「政治的な対立軸」でもあるわけです。でもって、今のところは「国民党」が「中国協調路線」、「民進党」が「台湾独自路線」を強調するという、非常に分かりやすい構図…台湾が二大政党の民主制を維持できているのは、もちろん台湾人自身の努力も大きいけれど、「地政学的必然」がもたらした面も少なからずあると思います。

日本の場合は、台湾と同じ文脈での二大政党制が機能しにくい社会だと思います。国際関係で日本に最も大きな影響を及ぼすのはアメリカと中国でしょうが、地政学的に、また国民感情的に、どうしても「親米派」が優勢になるので、外交関係が政治的な対立軸になり得ない。

欧米の二大政党の国では「大きい政府」vs「小さい政府」という対立軸が比較的ポピュラーですが、日本の場合、自公政権も野党も「大きい政府志向」が強く、アメリカの「ティーパーティー」的な政党が出にくい風土でもある…自民党と公明党が連立する限り、どうしても「一強」vs「万年野党」の構図になりやすい。

 

アジアを俯瞰すると、(単純比較は難しいですが…)軍政の影響がなければ「日本タイプの政党構成」が多い印象があります(シンガポール、マレーシアなど、日本と似てるかも…)。台湾のようなハッキリした二大政党制はアジアでは珍しく、いろんな意味で興味深い。

 

ところで、台湾社会に関しては、政権交代で世の中がガラッと変わり、前向きな方向に進みそう…という風にはあまり見えません。すでに経済的には先進国レベルになり、「追いつけ追い越せ」モードではなくなり、むしろ、「グローバル競争のなかで労働者賃金が増えない」、「間もなく超高齢化社会を迎え、年金医療含めて先行き不安」といった閉塞感のなかでの選挙戦、という感じがします。

我々家族の滞在先は、台湾・桃園空港近く、人口37万の工業都市「中壢」。昨晩は賑やかな中?夜市に行きましたが、選挙2週間前ということもあり、街頭演説、挨拶、ビラまきの光景がみられました。

こちらが、「本命」民進党の候補者。シンボルカラーは緑。

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対抗する国民党の候補者。シンボルカラーは青

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あと、二大政党では拾えない政治ニーズがたくさんあるのでしょうか、ミニ政党がたくさん出現しているようです。「いつの間に、いろんな政党ができてるんだなあ」と驚きました。たまたま、「時代力量」(New Power Party)というミニ政党のパンフレットとポケットティッシュを配られたので、ホテルに戻って読んでみました。

台湾の選挙民は、「総統」、「選挙区」、「比例代表」の3つの投票権が与えられるようです。日本と似てますね。ちなみに「時代力量」が、「選挙区」で擁立している候補者は、台北都市圏と台中都市圏の一部のみ。「比例代表」で5%の得票を得て、議席獲得を狙う戦略のようです。

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党の候補者は、ざっとみたところ、女性の方が男性よりやや多く、少数民族の代表、大学教授、弁護士、社会運動家といった顔ぶれが多い。

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党のスローガンは「正義を国会へ」だそうな。掲げる政策は左派好みものが多く、「税制改革」、「年金改革」、「派遣労働の廃止」、「公共セクターによる幼児教育の拡大」、「都市アメニティの整備」等々…今ほどグダグダになってない、1990年代後半頃の社民党を思い出させますね。何となく、

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私はこういう政策を必ずしも好むわけではありませんが、台湾の国情をみる限り、彼らの主張も理解はできます。特に幼児教育の商品化とか凄いですからねえ。もう少し公共に寄ってもいいかもしれない。

 

台湾は日本にとって大事な隣人。親日感情が強く、かつ自由や民主主義の理念を共有する仲間でもあり、いろんな意味で世界にプラスの貢献をしている人々だと思います。2週間後の選挙で政権交代すれば、当然中国にも、そして日本を含むアジア全体にも影響が及んできます。台湾の人々が、これからも民主選挙制度を運用しながら、近隣国とも上手に連携してくれることを、願ってやみません。

 

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はじめての海外アルバイト

おはようございます。Manachanです。オーストラリア・ケアンズ滞在もいよいよ終わり、明日には日本へ帰国します。

先日、作家・論客として名高い雨宮処凛さんの「失われた20年インタビュー」をWebで読みました。

雨宮さんと私は、そんなに年齢違いません。奇しくも同じ1994年に東京で就職したわけですが、彼女はフリーターとして苦しい歳月を重ねる体験のなかで、非正規労働や若者の貧困に目を向けていきました。対照的に私は、海を超えて外国で就職、という方向に走っていきました。

雨宮さんのインタビューを抜粋・引用しますと、

1993年に東京に出てきて、美大専門の予備校に行きました。バブル崩壊は何となく知ってたけど、東京に出た時はまだジュリアナ・ブームのような感じで、すごいバブルっぽい雰囲気がありました。94年に進学を諦めたんですが、その時に「就職氷河期」といわれていて、どうしたら就職できるかわからないし、まあアルバイトを始めようと思いました。実際に始めると、時給はどんどん下がっていって、バイト先でも「すごく悪い時にフリーターになったね」って言われましたね。

就職氷河期、ありましたね。1994年頃は、直前の時代(バブル期)と比べて求人数の激減は際立っていました。1990年あたりなら、「大学卒業してれば馬鹿でも就職できる」と言われてましたし、「就職が嫌ならフリーターとして悠々自活できる」時代でした。人生、タイミングが運命を左右する面って大きいですよね。

もっとも、就職が厳しくなった1994年時点で、私は大学院を卒業していました。雨宮さんは高卒・予備校中退だったわけで、時代が同じとはいえ「社会的資本」の差はかなり大きかったわけですが…引用続けます。

学生時代にバブルだったので、ものすごく受験勉強が厳しくて、受験戦争で傷つけられても、すべて頑張れば報われるという戦後日本の一番大切にしていた「神話」みたいなものを信じてきた。けれども、自分が社会に出たころ、「バブルが崩壊したから今までのことは全部うそになりました」と言われた気がして、すごくびっくりした。大人とか学校から教わってきたことが、たかが経済によってうそになるんだ、みたいな。

これは、共感します。私も全く同じことを感じていましたから…雨宮さんも私も、日本のなかで「幸運な逃げ切り世代」に属さないのは明らかです。さらに続けます。

飲食店で働いていると、日本人のフリーターに比べて韓国人のほうが時給は安いのに働き者だから取り換えたいとか、そういうことを言われるんですよ。「自分は日本の底辺にいて、外国人労働者とまったく変わらない。もし外国人労働者と自分を区別するものがあるなら、それって日本人であることしかない」みたいな、過剰に日本人であるってことにすがっていきました。

うーん、これはどうかな。気持ちはとてもよく分かるんだけど、逆に私にいわせれば、韓国人が海を超えて日本で働いてるのと同じように、自分が海を渡って出稼ぎに行けばいいんじゃないの?日本人に生まれたからって、日本で一生働き続けなけりゃいけない道理もないんだし…

私がそういう発想になるのは、さらに前の時代、1989年から海外(台湾)でアルバイトしてお金をもらっていた…という原体験が大きいと思います。

私は1989年4月から翌年3月まで、日本の大学を休学、台湾・台北市の師範大学に語学留学して、中国語を学んでいました。台湾渡航当時は、ユースホステル(青年活動中心)に寝泊まりしてまして、89年6月のある日、同宿の先輩から「ボールペン工場のアルバイト」を紹介してもらいました。

職場は、台北市内、中小工場と住宅が密集するゴチャゴチャした下町、仕事内容は「ボールペンの簡単な検査」(柄を回して、芯が出るかどうかのチェック)、朝9時から夕方5時まで働いて、日給は400台湾ドル(当時のレートで2200円)、昼食支給付、という条件でした。

条件面はそれなりですが、私にとっては、20歳にして初めて体験する「海外で外国語(中国語)を使っての給与労働」でした。

台湾の、こんな職場で、働いてました…

まだ、台湾渡航後1か月経ってない時期なので、中国語は十分に話せず、聞き取れずという状態。職場で、検品後の段ボールを「持ってきて」と指示されても、違う方向に「持って行ったり」…私がミスするたびに、職場の台湾人おばちゃんから爆笑されてました。

私がびっくりしたのは、支給される弁当のデカさ…日本の弁当の倍近くあるサイズで、ご飯と肉、野菜がギッシリ詰まっていました。私はまだ20歳だったので、全部食べきることもありましたが、残すこともありました。

次に驚いたのは、デカい弁当を食った後、台湾人の社員が一斉に机にうつぶせになって寝はじめたこと…夏の長い台湾では、涼しい夜になってから行動開始、一晩中起きてる人も多く、昼はスペインのシエスタよろしく「昼寝タイム」なのです。弁当食い&昼寝あわせて、昼休みはたっぷり1時間半もありました。

この職場では、2日間働いた後に、2日分の給料(800台湾元)をもらいます。私も出社2日目で、はじめて「100元札8枚」、邦貨換算4400円を拝んだわけです。大した金額ではありませんが、でもこれは紛れもなく、私の時間と身体を使って稼いだ外貨収入なのです。

私がその後の人生で、外国に出稼ぎに行くことに全く抵抗なくなったのも、台湾アルバイトの原体験があったかもしれません。

外国暮らしがとても縁遠いと感じる日本人もまだ多いです。私も、「息子が中国に行って働くと言うんです。どうしたらいいでしょうか?」みたいな人生相談を受けることがありますが、「いいんじゃないすか、今の時代、日本から中国へ出稼ぎに行くのも、柏から東京へ出稼ぎに行くのと大して変わりませんよ」と、軽~いノリで答えたりします。この発想も、20歳で台湾アルバイトの経験をし
たからこそでしょう。

先ほどの雨宮さんの話に戻りますが、彼女が苦しいフリーター渡世ながら日本に留まり、非正規労働の実態を見つめ続けたからこそ、作家・論客として日本に大きな貢献を果たしていることは素直に認めます。

でも、私自身はそういう方向を選択しません。「日本の就職が厳しく苦しいなら、海外に活路を見出せばいいじゃん」という考えだからです。外国語も、最初は不自由で苦労しますが、慣れれば上手になります。そして、いろんな言葉ができればできるほど、就職可能性や活躍の場も広がります。海を渡って働くことが、語学習得という意味でレバレッジがきく、効率の良い時間の使い方だとも思います。

海外で働いた結果、日本語のほか、英語、中国語がビジネスレベルになれば、別に世界のどこで働いてもいい。「日本の失われた20年」なんて関係なくなるでしょ?

そういう世界に気づくことができたのも、台湾アルバイトの経験があったからでしょう。本当に、台湾に感謝です。

日本に帰国したら、すぐ、台湾不動産セミナーで講演します。興味のある方は是非

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目指せ資産3倍!台湾不動産セミナー@東京(リンク

■日程 2015年8月22日(土) 13:15~15:00

■会場 東京都新宿区西新宿7-2-4 新宿喜楓ビル Pルーム

■参加料金:無料 

■参加申込リンク:http://asia-pacific.tv/pp/button.php?id=279&skin 

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台湾、鉄道の旅と文化

こんにちはManachanです。前回に引き続き、台湾ネタ。今回は「鉄道」の話題でいきますね。

私たちの住む日本は、質、量、テクノロジー、安全性…どれをとっても、世界一の鉄道の国だと思います。私も子供の頃から電車が大好きで、時刻表片手に日本全国を旅したものです。

私、もし今すぐ無人島に行かねばならず、そこに一冊だけ本を持っていいという話になれば、間違いなく「JR時刻表」を持っていきます。もし、明日には死ぬことが分かっていて、その前に本を1冊だけ読めるとなれば、やはり「時刻表」を選びます。時刻表は一日中眺めていても飽きない、その位、好きです。

世界に誇る、素晴らしき日本の鉄道と旅行の文化…それを継承する国が、日本の他に、ただ一つだけあります。それが「台湾」です。ここには、

・日本と同じく、「駅弁」の文化がある。
・日本と同じく、鉄道ファン(鉄っちゃん)が多い。
・日本と同じく、鉄道の旅をテーマとする雑誌がいくつもある。
・日本と同様、鉄道駅を中心に発達している都市が多い。
・「田中」、「追分」、「瑞穂」、「冨里」など、日本みたいな駅名が多い。

あと、台湾人の鉄道の楽しみ方も日本人と似ています。日本ではJR北海道、十勝地方の「愛国~幸福」の片道切符が縁起ものとして人気ですが、台湾でも、たとえば台南市の「保安」駅から「永康」駅の切符をあわせると中国語で「保永安康」というめでたい意味になり、この区間の片道切符が人気です。

今年10月には、大阪(関空)~台南の直行便が就航します。前述「保安」駅は台南空港から近く、「永康」駅は6月下旬のセミナーで紹介する物件の最寄り駅なので、関西在住の方は是非、縁起ものの「保安~永康」の片道切符をGETされてみてはいかが?

めざせ資産3倍!台湾不動産セミナー@東京
リンク→6/27(土)セミナー6/28(日)セミナー

台湾の鉄道、その原型の多くは大日本帝国が植民地時代につくりました。日本の敗戦後、中華民国に全島が接収された後も、東部幹線、南廻線をはじめ、いくつかの幹線や支線がつくられています。

日本のJRに相当する台湾鉄路局が管轄する路線は全長1100㎞強、延べ1億7000万人の年間利用。別会社が運営する台湾新幹線は全長345㎞、延べ4800万人の年間利用。日本全国とは規模が違いすぎて比べられませんが、「JR九州」とは同じような規模。台湾の国土面積が九州とほぼ同じことを考えると、鉄道は間違いなく、台湾人の生活に根づいていると言って良いでしょう。

台湾人、特に台北首都圏に住んでいる都会人たちは、本線から分岐して内陸に入り、台湾山脈に消えゆくような「盲腸線」の旅を好みます。台湾には「三大支線」というものがあって、

1)平渓線(台湾北部、新北市)
2)内湾線(台湾北部、新竹県)
3)集集線(台湾中部、南投県)

特に1)と2)は台北から行きやすいこともあり、多くの鉄道ファンや観光客を集めています。私は2)内湾線に揺られて、のんびり、終点の「内湾」駅まで行ったことがあります。

時刻表、オール漢字で分かりやすい

終点「内湾」は賑やかな街、特に昔の映画を上映する「内湾戯院」は観光名所

日本でいうと、愛媛県の「内子座」にそっくりだと思いました。

日本に似ていて、ちょっと違う。懐かしくて、昭和の香りがするけど、不思議な新しさもある。海と国境を隔てていても、鉄道を愛する文化を共有する不思議な隣人…台湾に行くことがあれば、鉄道の旅を、是非お楽しみください。

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