はじめての海外アルバイト

おはようございます。Manachanです。オーストラリア・ケアンズ滞在もいよいよ終わり、明日には日本へ帰国します。

先日、作家・論客として名高い雨宮処凛さんの「失われた20年インタビュー」をWebで読みました。

雨宮さんと私は、そんなに年齢違いません。奇しくも同じ1994年に東京で就職したわけですが、彼女はフリーターとして苦しい歳月を重ねる体験のなかで、非正規労働や若者の貧困に目を向けていきました。対照的に私は、海を超えて外国で就職、という方向に走っていきました。

雨宮さんのインタビューを抜粋・引用しますと、

1993年に東京に出てきて、美大専門の予備校に行きました。バブル崩壊は何となく知ってたけど、東京に出た時はまだジュリアナ・ブームのような感じで、すごいバブルっぽい雰囲気がありました。94年に進学を諦めたんですが、その時に「就職氷河期」といわれていて、どうしたら就職できるかわからないし、まあアルバイトを始めようと思いました。実際に始めると、時給はどんどん下がっていって、バイト先でも「すごく悪い時にフリーターになったね」って言われましたね。

就職氷河期、ありましたね。1994年頃は、直前の時代(バブル期)と比べて求人数の激減は際立っていました。1990年あたりなら、「大学卒業してれば馬鹿でも就職できる」と言われてましたし、「就職が嫌ならフリーターとして悠々自活できる」時代でした。人生、タイミングが運命を左右する面って大きいですよね。

もっとも、就職が厳しくなった1994年時点で、私は大学院を卒業していました。雨宮さんは高卒・予備校中退だったわけで、時代が同じとはいえ「社会的資本」の差はかなり大きかったわけですが…引用続けます。

学生時代にバブルだったので、ものすごく受験勉強が厳しくて、受験戦争で傷つけられても、すべて頑張れば報われるという戦後日本の一番大切にしていた「神話」みたいなものを信じてきた。けれども、自分が社会に出たころ、「バブルが崩壊したから今までのことは全部うそになりました」と言われた気がして、すごくびっくりした。大人とか学校から教わってきたことが、たかが経済によってうそになるんだ、みたいな。

これは、共感します。私も全く同じことを感じていましたから…雨宮さんも私も、日本のなかで「幸運な逃げ切り世代」に属さないのは明らかです。さらに続けます。

飲食店で働いていると、日本人のフリーターに比べて韓国人のほうが時給は安いのに働き者だから取り換えたいとか、そういうことを言われるんですよ。「自分は日本の底辺にいて、外国人労働者とまったく変わらない。もし外国人労働者と自分を区別するものがあるなら、それって日本人であることしかない」みたいな、過剰に日本人であるってことにすがっていきました。

うーん、これはどうかな。気持ちはとてもよく分かるんだけど、逆に私にいわせれば、韓国人が海を超えて日本で働いてるのと同じように、自分が海を渡って出稼ぎに行けばいいんじゃないの?日本人に生まれたからって、日本で一生働き続けなけりゃいけない道理もないんだし…

私がそういう発想になるのは、さらに前の時代、1989年から海外(台湾)でアルバイトしてお金をもらっていた…という原体験が大きいと思います。

私は1989年4月から翌年3月まで、日本の大学を休学、台湾・台北市の師範大学に語学留学して、中国語を学んでいました。台湾渡航当時は、ユースホステル(青年活動中心)に寝泊まりしてまして、89年6月のある日、同宿の先輩から「ボールペン工場のアルバイト」を紹介してもらいました。

職場は、台北市内、中小工場と住宅が密集するゴチャゴチャした下町、仕事内容は「ボールペンの簡単な検査」(柄を回して、芯が出るかどうかのチェック)、朝9時から夕方5時まで働いて、日給は400台湾ドル(当時のレートで2200円)、昼食支給付、という条件でした。

条件面はそれなりですが、私にとっては、20歳にして初めて体験する「海外で外国語(中国語)を使っての給与労働」でした。

台湾の、こんな職場で、働いてました…

まだ、台湾渡航後1か月経ってない時期なので、中国語は十分に話せず、聞き取れずという状態。職場で、検品後の段ボールを「持ってきて」と指示されても、違う方向に「持って行ったり」…私がミスするたびに、職場の台湾人おばちゃんから爆笑されてました。

私がびっくりしたのは、支給される弁当のデカさ…日本の弁当の倍近くあるサイズで、ご飯と肉、野菜がギッシリ詰まっていました。私はまだ20歳だったので、全部食べきることもありましたが、残すこともありました。

次に驚いたのは、デカい弁当を食った後、台湾人の社員が一斉に机にうつぶせになって寝はじめたこと…夏の長い台湾では、涼しい夜になってから行動開始、一晩中起きてる人も多く、昼はスペインのシエスタよろしく「昼寝タイム」なのです。弁当食い&昼寝あわせて、昼休みはたっぷり1時間半もありました。

この職場では、2日間働いた後に、2日分の給料(800台湾元)をもらいます。私も出社2日目で、はじめて「100元札8枚」、邦貨換算4400円を拝んだわけです。大した金額ではありませんが、でもこれは紛れもなく、私の時間と身体を使って稼いだ外貨収入なのです。

私がその後の人生で、外国に出稼ぎに行くことに全く抵抗なくなったのも、台湾アルバイトの原体験があったかもしれません。

外国暮らしがとても縁遠いと感じる日本人もまだ多いです。私も、「息子が中国に行って働くと言うんです。どうしたらいいでしょうか?」みたいな人生相談を受けることがありますが、「いいんじゃないすか、今の時代、日本から中国へ出稼ぎに行くのも、柏から東京へ出稼ぎに行くのと大して変わりませんよ」と、軽~いノリで答えたりします。この発想も、20歳で台湾アルバイトの経験をし
たからこそでしょう。

先ほどの雨宮さんの話に戻りますが、彼女が苦しいフリーター渡世ながら日本に留まり、非正規労働の実態を見つめ続けたからこそ、作家・論客として日本に大きな貢献を果たしていることは素直に認めます。

でも、私自身はそういう方向を選択しません。「日本の就職が厳しく苦しいなら、海外に活路を見出せばいいじゃん」という考えだからです。外国語も、最初は不自由で苦労しますが、慣れれば上手になります。そして、いろんな言葉ができればできるほど、就職可能性や活躍の場も広がります。海を渡って働くことが、語学習得という意味でレバレッジがきく、効率の良い時間の使い方だとも思います。

海外で働いた結果、日本語のほか、英語、中国語がビジネスレベルになれば、別に世界のどこで働いてもいい。「日本の失われた20年」なんて関係なくなるでしょ?

そういう世界に気づくことができたのも、台湾アルバイトの経験があったからでしょう。本当に、台湾に感謝です。

日本に帰国したら、すぐ、台湾不動産セミナーで講演します。興味のある方は是非

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■日程 2015年8月22日(土) 13:15~15:00

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