地名に歴史ありーベトナム編

こんばんは、Manachanです。今日は朝から晩まで、ハノイの東から西へ、不動産物件を見まくって、とても充実した楽しい一日でした。

不動産を生業とする者の習性として、どの土地に行っても、地図を頭に入れながら歩き回ったり、地名の由来に思いを馳せたりするものです。それは、ベトナムという外国でも変わりません。

 

Hai Bà Trưng(ハイバーチュン)とかBạch Đằng(バクザン)とかTrần Hưng Đạo(チャンフンダオ)とか、ベトナムのどの都市に行っても、よく出てくる地区名や街路名がありますね。調べると、 その少なからぬ割合が、ベトナム歴史上の人物の名前で占められています。彼らの多くが武将や皇帝、革命指導者であり、「戦役で外敵を破って、ベトナム民族の独立を守った」英雄です。

現在のベトナムの領土が、漢民族の文書に出てくるようになったのは、今から約2000年前、イエス・キリストの時代にまで遡ります。それ以来、ベトナム民族の歴史は、息つく暇もない位、戦争に次ぐ戦争の連続。ざっくり言うと、前半の1000年間は中国の支配下にあり、後半の1000年間は独立国家として生きてきたわけですが、いずれの時代も、外敵と戦い続け、並々ならぬ犠牲を払って、インドシナ半島東側の領土を守り続けてきました。

 

ベトナムにとっての「外敵」は、多くの場合「中国・漢民族」だったわけですが、時には「モンゴル(元)」、「シャム(タイ)」、「フランス」、「アメリカ」などを敵に回して戦いました。ベトナム人は昔から筋金入りの「戦う民族」だったのです。

だから、ベトナム史上、それぞれの時代に、「外敵と戦った英雄」がいて、そこに非常に多くの人名が出てきます。彼らの名前は、ベトナム中の道路や地域の名前を埋め尽くしています。今回は、代表的なものだけをとりあげますね。

 

Hai Bà Trưng (ハイバーチュン、徴姉妹の乱、西暦40-43年)

「古代ベトナムのジャンヌ・ダルク」

ホーチミン、ハノイを含め、ベトナム各都市でよく目にする地名ですね。これはイエス・キリストの昔、中国の「後漢・光武帝」の時代に、ハノイ周辺に実在した人物の名前です。ハイは「2」、バーは「婆」(女性の意味)、チュンは「徴」…つまり「徴」姓の2人姉妹(徴側と徴弐)で、ベトナム民族の祖先だったと思われます。

ハノイ周辺が、中国人によって「交趾」(コーチ)と呼ばれ、属領にされつつある頃、現地の豪族であった徴姉妹が、周辺の豪族を味方につけて、西暦40年、後漢政府に反旗を翻し、周辺地域を3年間だけ支配しました。光武帝は馬援将軍を派遣し、反乱鎮圧を命じました。徴姉妹も抵抗しましたが力及ばず、西暦43年、馬援の軍に殺害されました。

徴姉妹はベトナム人の間で、今日でも英雄として語り継がれています。馬援に討たれるまでのわずか3年間を「ハイバーチュン時代」と呼んでいるほどです。なお、この時代は日本の福岡市近辺にあった「奴国」が後漢光武帝に朝貢し、「金印」を授かったのとほぼ同時期です。北部九州の人には感慨深い事実ではないでしょうか?

 

Battle of Bạch Đằng River (バクザン、白藤江の戦い、938年、981年、1288年)

「ベトナムの関ケ原決戦」

ベトナム第三の都市・ダナンのメインストリート「バクザン通り」をはじめ、ベトナム各都市にある地名ですね。

徴姉妹の乱から900年の長きにわたり、ベトナムは中国歴代王朝の支配下にありましたが、西暦939年、ついに独自の民族王朝「呉朝」を持つことができました。そのきっかけとなったのが、938年の白藤江(バクザン河)の戦いでの勝利。ハノイの北東「ハロン湾」付近にある河口が決戦の地になりました。

勝てば独立、負ければ異民族の支配…「ベトナムの関ケ原」天下分け目の戦いに、呉権率いるベトナム軍は、小舟を使った巧みなゲリラ戦術で中国(南漢)軍を見事に撃破して、ベトナム民族による国家を地上に現出させました。

その後も、白藤江はベトナム対中国王朝の決戦の地になりました。981年、前黎朝 と 北宋による戦いはベトナム側敗北。1288年、陳朝 と 元による戦いはベトナム側の勝利になりました。

 

Trần Hưng Đạo (チャンフンダオ、陳興道、1228~1300年)

「ベトナムで元寇を撃退した英雄」

ホーチミン1区に「チャンフンダオ通り」がありますね。ベトナム人の歴史上の人物のなかでは、日本人に比較的知られている名前かもしれません。

彼は大越陳朝の王族・武将。1257年、モンゴル軍が侵攻してきた際、大越軍を率いて蒙古軍を大いに破り、1282年からクビライが建てた元による侵攻を受けると、チャンフンダオは大越軍の総司令官に任じられ、巧みなゲリラ戦を繰り広げて元軍に大勝しました。

ほぼ同時期、日本にも元の侵攻(元寇)があり、九州・福岡周辺の武士たちが勇敢に応戦。台風にも助けられて独立を守りました。巧みな戦術で元軍を打ち破ったチャンフンダオは日本人の心を打つベトナム人の一人ですね。

 

Phạm Ngũ Lão (ファングーラオ、范五老、1255~1320年)

「ベトナムの諸葛孔明」

ホーチミン1区、バックパッカーの安宿が並ぶ一角「ファングーラオ通り」。その地名の由来は、前出チャンフンダオに仕え、元王朝への抵抗戦争で数々の戦功を納めた名軍師「ファングーラオ」。

 

Lê Lợi/Lê Thái Tổ (レロイ/レ・タイト、黎利/黎太祖、1385~1443年)

「明朝を打ち破った、ベトナム中興の祖」

ホーチミン1区に「レロイ通り」があり、ハノイのホアンキエム湖沿いの周回道路に「レ・タイト通り」の名前が付けられています。その由来は、後黎朝大越国の初代皇帝「レロイ」(廟号は「レ・タイト」)。

1406年の明の永楽帝によるベトナム侵攻とその後の支配に抵抗。明の勢力をベトナムから追い払い、ハノイで黎朝を開きました。軍事面だけでなく政治家としても大きな成果をあげ、均田制・科挙制などを導入、諸法典の整備に取り組みました。

 

Nguyễn Huệ (グエンフエ、阮恵、1753~1792年)

「ベトナムのナポレオン、国の南北でシャム軍と清朝を打ち破った天才将軍」

ホーチミン1区の目抜き通り、歩行者天国の「グエンフエ通り」がありますが、その由来は、18世紀に活躍した、ベトナム西山朝第2代皇帝にして、同国史上最も成功した軍司令官の一人でもある「グエンフエ」。

「ベトナムのナポレオン」とたとえられるほどの戦上手。ベトナム南部では、ラックガム=ソアイムットの戦いで広南阮氏の残党とシャム(タイ)の連合軍を破り、ベトナム北部ドンダーの戦いでは黎朝残党と清王朝の連合軍を破っています。

 

Đề Thám (デタム、提探、1858~1913年)

「フランス植民軍に抵抗した提督」

ホーチミン市1区の安宿街が並ぶデタム通り。その由来は、ホアン・ホア・タム、またの名をデ・タム(タム提督)。彼はベトナム北部・北江省の安世県を中心に25年にわたって繰り広げられたフランス植民地政府への反乱である安世起義の指導者です。農民兵を組織し、巧みな戦術で何度もフランス軍を撃退しました。

 

Nguyễn Thị Minh Khai (グエンチミンカイ、阮氏明開、1910~1941年)

「ホーチミンの妻(?)にして革命同志」

ホーチミン3区やハノイのハイバーチュン区に「ミンカイ通り」がありますが、その由来はベトナムの女性革命指導者「グエンチミンカイ」。

1930年にミンカイは香港に赴き、当時「阮愛國(グエン・アイ・クォック)」と名乗っていたホー・チ・ミンのコミンテルン極東支部秘書となりました。翌年、ミンカイとホーチミンは互いにひかれあい、結婚を計画していましたが、ミンカイが破壊活動の容疑で英国警察に逮捕・投獄されたため、二人の仲は引き裂かれ、ミンカイは1940年にフランス植民地政府に捕縛され、翌年銃殺されました。

ミンカイの名前を冠した地名や学校名はベトナム中にあります。

 

Lý Tự Trọng (リ―トゥ―チョン、1914~1931年)

「17歳でフランス軍に処刑された革命殉教者」

ホーチミン1区、日本人街レタントン通りと並行する長大な通り。私の常宿もあるお洒落なエリアですが、地名の由来は、フランス植民地時代、1931年にホーチミンで革命デモを起こし、わずか17歳で処刑され命を落とした少年「リ―トゥ―チョン」。若き殉教者として、その名はベトナム人の心に刻まれています。

 

…こんな感じで、ベトナムの歴史は戦いに次ぐ戦い。苦難のなかで、ベトナムのために命をかけた人々の名前が語り継がれ、地名になったり、学校名になったりしているわけです。

その歴史に思いを馳せながら歩くベトナムも楽しいものですね。この知識は、ベトナム人と仲良くなったり、また不動産投資の面でもきっと役に立つと思いますよ。

 

【ホーチミン1区東部】

 hochiminh01

【ホーチミン1区西部~3区】

hochiminh02

Share on Facebook

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*