理系脳vs文系脳

Manachanです、こんばんは。

今朝、自宅の郵便ポストを開けたら、

計画停電のお知らせ

なる郵便物が入っていました。

あれっ、関東エリアでは、今年は計画停電ないはずだけど、なんでだろ・・・・よく見たら、住所が、「福岡市南区・・・」になってました。私の持ってる一棟アパートですね。

九州では、計画停電やるのか・・・知らなかった

よく考えたら、九州電力管内は、関西電力に次いで、原発依存度が高いエリア。まだ再稼働してないはずだから、夏の電力需給は厳しいんでしょうね。

福岡都心近く、「西鉄高宮駅から徒歩2分」という立地にある我がアパートも、しっかり、計画停電スケジュールが組まれておりました。

いずこも厳しい、今年の夏かな・・・

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原発事故後の東日本において、私が比較的、心安らかに、落ち着いて暮らしていられるのは、

かつて理系の学問をやったことが、大きな助けになっていると思います。

原発由来の放射性物質という、これまで考えたこともなかったモノが身近に存在するようになり、

ベクレルだのシーベルトだのナノグレイだの、耳慣れない単位が踊る毎日。

いろんな専門家(自称専門家も含む)が、それぞれ、違うことを言って、何が正しいのか、分からない。

そんななかで、私がフル稼働させたのは、「理系脳」の方でした。

「1平方メートルあたり4万ベクレルのセシウム」みたいな数値が、果たしてどんな意味を持つのか?

健康影響は、どれだけありそうなのか?喫煙など、他の健康リスクと比べて、大きいのか小さいのか?

「物事を定量的に考えるクセ」が身についていたおかげで、私は原発事故の3週間後には、

「なーんだ、全然ビビることないじゃん!」

と、達観するようになりました。これは、本当に大きな財産だと思います。

もし私が、そういう脳味噌の使い方を知らなかったら、きっと、

「低線量被爆が、安全なのか危険なのか、自分では判断できないから、とにかく、疑わしきものには、近づかない」

「放射能が、入ってなければいい。兎に角、ゼロに近ければいい」

「いま住んでいる地域が、放射性管理区域の線量ですって?チェルノブイリ並みですって?やばい!逃げなきゃ!!」

みたいな感じで、住まいにも、食べ物にも空気にも、不安や恐れを抱き、誰かの言うことに左右されて、右往左往していたのかもしれませんね。


私は、大学時代に、文科系(社会学部)と理科系の(工学部)の学問を学び、いずれの学会発表もしたり、卒業論文を書いたりしました。

いまの日本では、なかなか得難い、稀有な経験だったと思います。その経験からいうと、

「理系脳」と「文系脳」は全然違う!

どこが違うのか?ギリシャ哲学由来の「真」、「善」、「美」の念を使って説明すると、

「理系脳」は、まず何より「真」であろうとする。「真」であってはじめて、「善」と「美」が成立すると考える。

一方、「文系脳」は、まず何より、「善」や「美」であろうとする。そして、自分の信じる「善」や「美」のために、「真」が存在すると考える。

これは、自然科学と社会科学の、性質の違いから来ていると思います。

理系の学問は、一言でいえば、自然現象のなかから、「真」といえるものを、見出す営みです。

ここでいう「真」とは、たとえば、「2+3=5」のように、誰が計算しても同じ答えが出るとか、

全く同じ条件、方法で、同じ実験を行うと、誰がやっても同じ結果が再現されるようなことを指します。

一方、文系の学問は、人間社会という、基本的に実験不可能で、かつ再現性もない世界を扱います。

たとえば、「日本がデフォルトしたら、社会はどうなるか?」という問いに答えを出すのは、経済学の仕事ですが、

それを実験できるわけはないので、論者によって、言うことが全然違ってきます。

社会科学には、誰からみても「真」であるものが、そもそも存在しない世界。そこで重要になってくるのが、各人の学問的・政治的立場であったり、主義主張、価値観であったり・・・

つまり、「善」や「美」が前面に出てきて、「真」はそれらを補足するオマケみたいなもの・・・そんな位置づけになりやすいんですね。

私がブログを書く時、「理系脳」を使うこともあれば、「文系脳」を使うこともあります。

但し基本は、「理系的」なアプローチ。つまり、「真」であることに、とことんこだわりたいと、常に思っています。なぜなら、

・私にとっての「真」は、読者の誰にとっても「真」であるはず

一方で、

・私にとっての「善」や「美」は、他の読者にとっても、「善」や「美」とは限らない。

そう考えた時、

・人々が、Manachanのブログを読んでくれるのは、ここで提供されている情報が、少なくとも「真」である(嘘八百じゃない)という信頼感があるから

特にここでは、「海外不動産」なんていう、日本ではまだ情報が全然足りない領域のモノをたくさん書いてますし、

場合によっては、私の書く文章が、Google検索して見つかる、唯一の日本語情報だったりもする。だから、なおさら「真」にはこだわりたいと思う。

「真」なることが、Manachanブログの価値であるのなら、私は、

f・自分の考える、「善」や「美」のために、「真」を捏造したり、誇張・矮小化することは、したくない。

・まだ不確かなものを、断定口調で言ったりは、したくない。

今後とも、ご愛読のほど、よろしくお願いしますね。

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今朝、自宅の郵便ポストを開けたら、

計画停電のお知らせ

なる郵便物が入っていました。

あれっ、関東エリアでは、今年は計画停電ないはずだけど、なんでだろ・・・・よく見たら、住所が、「福岡市南区・・・」になってました。私の持ってる一棟アパートですね。

九州では、計画停電やるのか・・・知らなかった

よく考えたら、九州電力管内は、関西電力に次いで、原発依存度が高いエリア。まだ再稼働してないはずだから、夏の電力需給は厳しいんでしょうね。

福岡都心近く、「西鉄高宮駅から徒歩2分」という立地にある我がアパートも、しっかり、計画停電スケジュールが組まれておりました。

いずこも厳しい、今年の夏かな・・・

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かつて理系の学問をやったことが、大きな助けになっていると思います。

原発由来の放射性物質という、これまで考えたこともなかったモノが身近に存在するようになり、

ベクレルだのシーベルトだのナノグレイだの、耳慣れない単位が踊る毎日。

いろんな専門家(自称専門家も含む)が、それぞれ、違うことを言って、何が正しいのか、分からない。

そんななかで、私がフル稼働させたのは、「理系脳」の方でした。

「1平方メートルあたり4万ベクレルのセシウム」みたいな数値が、果たしてどんな意味を持つのか?

健康影響は、どれだけありそうなのか?喫煙など、他の健康リスクと比べて、大きいのか小さいのか?

「物事を定量的に考えるクセ」が身についていたおかげで、私は原発事故の3週間後には、

「なーんだ、全然ビビることないじゃん!」

と、達観するようになりました。これは、本当に大きな財産だと思います。

もし私が、そういう脳味噌の使い方を知らなかったら、きっと、

「低線量被爆が、安全なのか危険なのか、自分では判断できないから、とにかく、疑わしきものには、近づかない」

「放射能が、入ってなければいい。兎に角、ゼロに近ければいい」

「いま住んでいる地域が、放射性管理区域の線量ですって?チェルノブイリ並みですって?やばい!逃げなきゃ!!」

みたいな感じで、住まいにも、食べ物にも空気にも、不安や恐れを抱き、誰かの言うことに左右されて、右往左往していたのかもしれませんね。


私は、大学時代に、文科系(社会学部)と理科系の(工学部)の学問を学び、いずれの学会発表もしたり、卒業論文を書いたりしました。

いまの日本では、なかなか得難い、稀有な経験だったと思います。その経験からいうと、

「理系脳」と「文系脳」は全然違う!

どこが違うのか?ギリシャ哲学由来の「真」、「善」、「美」の念を使って説明すると、

「理系脳」は、まず何より「真」であろうとする。「真」であってはじめて、「善」と「美」が成立すると考える。

一方、「文系脳」は、まず何より、「善」や「美」であろうとする。そして、自分の信じる「善」や「美」のために、「真」が存在すると考える。

これは、自然科学と社会科学の、性質の違いから来ていると思います。

理系の学問は、一言でいえば、自然現象のなかから、「真」といえるものを、見出す営みです。

ここでいう「真」とは、たとえば、「2+3=5」のように、誰が計算しても同じ答えが出るとか、

全く同じ条件、方法で、同じ実験を行うと、誰がやっても同じ結果が再現されるようなことを指します。

一方、文系の学問は、人間社会という、基本的に実験不可能で、かつ再現性もない世界を扱います。

たとえば、「日本がデフォルトしたら、社会はどうなるか?」という問いに答えを出すのは、経済学の仕事ですが、

それを実験できるわけはないので、論者によって、言うことが全然違ってきます。

社会科学には、誰からみても「真」であるものが、そもそも存在しない世界。そこで重要になってくるのが、各人の学問的・政治的立場であったり、主義主張、価値観であったり・・・

つまり、「善」や「美」が前面に出てきて、「真」はそれらを補足するオマケみたいなもの・・・そんな位置づけになりやすいんですね。

私がブログを書く時、「理系脳」を使うこともあれば、「文系脳」を使うこともあります。

但し基本は、「理系的」なアプローチ。つまり、「真」であることに、とことんこだわりたいと、常に思っています。なぜなら、

・私にとっての「真」は、読者の誰にとっても「真」であるはず

一方で、

・私にとっての「善」や「美」は、他の読者にとっても、「善」や「美」とは限らない。

そう考えた時、

・人々が、Manachanのブログを読んでくれるのは、ここで提供されている情報が、少なくとも「真」である(嘘八百じゃない)という信頼感があるから

特にここでは、「海外不動産」なんていう、日本ではまだ情報が全然足りない領域のモノをたくさん書いてますし、

場合によっては、私の書く文章が、Google検索して見つかる、唯一の日本語情報だったりもする。だから、なおさら「真」にはこだわりたいと思う。

「真」なることが、Manachanブログの価値であるのなら、私は、

f・自分の考える、「善」や「美」のために、「真」を捏造したり、誇張・矮小化することは、したくない。

・まだ不確かなものを、断定口調で言ったりは、したくない。

今後とも、ご愛読のほど、よろしくお願いしますね。

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