5年生になるのが楽しみ

こんばんは、Manachanです。この春休み、うちの子供たちはマレーシアで過ごし、すっかりリフレッシュして、明日(4月6日)から、新学年になります。

これから小学校の新5年生になる娘ソフィアも、明日は元気に登校班で行くことでしょう。親として、感無量です。この子の場合、日本の学校に慣れず、数年にわたる紆余曲折がありましたので…

 

ソフィアは、5~6歳の時期をオーストラリアで過ごし、日本の幼稚園年長にあたるPrepと、小学1年生にあたるGrade 1は、現地の学校に行っていました。それから日本に帰国し、1年生の3学期で合流しました。

オーストラリアから、日本へ。劇的に環境が変わります。言語環境も英語100%から日本語100%に変わりますし、それ以上に、学校生活のスタイル自体が全然違います。

 

オーストラリアの小学校では、机や椅子などを使わず、子供たちが先生の周りを取り囲むように座って授業を受けたものです。1クラス20人ちょっとなので、先生が子供一人ひとりに気を配れるような環境でした。また、宿題などはなく、教科書ノートは教室に置きっぱなしでした。

それが日本の学校に来ると、子供たち全員が、机や椅子を先生の方に向けて、姿勢を正して授業を聞く。そして、皆が一斉に同じことをやる。宿題は毎日出て、教科書ノートはランドセルに入れて持ち運ぶ毎日…

 

どちらが良いとか悪いとか、そういう価値判断は抜きにして、余りの環境変化に、幼いソフィアは戸惑い、なかなか適応できずにずっと苦しんだのです。

2年生の時は、とにかく、宿題拒否。時には3時間、私たち親が、あの手この手で宿題やらせようとしても、頑としてやらない。そして3年生の12月、ついに、不登校になり、時には1週間、ずっと学校に行けない日々が続きました…最悪な頃に書いた日記がこれです。

不登校パパ奮闘記(2015/1/28)

 

それから後が、長かったです。ソフィアは、どちらかといえばパパっ子なので、私が毎日、2時間目か3時間目に、ソフィアの気分が乗った頃に学校に連れていく。それから仕事に行く…

サラリーマンしてたら、こんなことできませんが、幸い、当時の私はすでに気楽な一人社長になっていたので、時間の融通はききます。その代わり、午前11時より前の商談やアポイントメントは一切入れられないし、物件確認や役所調査も11時以前は無理という、仕事的には制約の多い日々でした。

 

4年生になると、ソフィアの状態も少しはマシになってきましたが、まだまだ不登校は続きます。

不登校と心理エネルギー(2015/4/13)

 

不登校で勉強が遅れるソフィアの将来を心配する妻と、どちらかといえば楽観する私。教育上で意見が合わないことも多々ありました。当時は夫婦仲も、極めて不安定でしたね。娘の不登校でストレス溜まりますからねえ。

変なパパ、娘は天才(2015/5/8) 

 

でも、ソフィアにとって幸いだったのが、担任の先生に恵まれたことです。3年と4年を担任してくれた男性教師は、ソフィアの良き理解者で、陰に陽に、サポートしてくれました。私もこの日記に書きましたが、

アスぺ父より、娘に贈る言葉(2015/1/10)

「世の中、いろんな人がいる。君の良さが分からない人、悪いことばかり目につく人は大勢いる。でも、分かってくれる人は必ずいるんだ。〇〇先生もその一人だよ。」

「〇〇先生のような人は、大事にするんだぞ。」

 

また、4年のクラスに、仲の良い女の子の友達が5人ほどいたのも幸いしました。毎日、1時間目から学校に行けるわけではないけれど、下校時には一緒に遊んだりして…徐々に、学校が楽しい場所に変わってきたようです。10月からは、週一回、区の通級指導教室に通うようになり、そこの先生も良き理解者になってくれました。

そして、12月も終わりに近いある日のこと、

ソフィアが、自分から、登校班で行くようになった!!

 

その日から、ソフィアは3か月の間、登校班の皆勤賞。一時間目から問題なく登校できるようになりました。そして、宿題も自発的にやるようになり、とにかく、親も先生もびっくりするほどの成長を遂げています。2月3月頃には、先生方と話すなかで、こんな言葉が出るようになりました。

ソフィアちゃん、5年生になるのが、楽しみですね。

 

そう、「次の学年に進むのが、楽しみ」・・・この言葉が自然に出るようになる日のために、私も妻も、これまで、辛抱強く頑張ってきたのです。

そしてこの子は、親の予想や期待を超えるスピードで、しっかり、着実に成長しています。これまで何年間も、暖かく見守ってくれた先生方や、近所の皆様にはもう感謝の言葉しかありません。

 

ここは日本の東京、江東区東陽町という場所。子供を育てる環境として、ベストなのかどうか、いろんな意見があることでしょう。ただ、どんな環境であれ、周囲の大人や地域の教育力を信じ、自分を信じ、そして何より我が子の成長を信じて、試行錯誤しながら、前に歩み続けていくこと…それは、「孟母三遷」するより、もっと大事で尊いことだと思います。

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海外不動産「情弱ビジネス」を超えて

こんばんはManachanです。10日間にわたる東南アジア滞在から無事帰国しました。今回の日記は、私が「アジア太平洋大家の会」で5年以上取り組んできた「海外不動産セミナー」について書きます。

私たちが会を立ち上げた2011年当時と比べると、今は海外不動産を取り扱う業者数が格段に増え、特に東京では毎週のように、アジア、北米、欧州、オセアニア…世界各国の不動産案件を紹介するセミナーが行われています。もっとも、セミナーで得られる情報のクオリティは、今も昔も玉石混交。「イケてない業者による、ダメなセミナー」は多数あり、なかなか淘汰されていきません。

その典型例が、「情弱(情報弱者向け)セミナー」とよばれるもので、次の特徴があります。

・海外不動産投資で利益をあげるだけの知識や判断能力(リテラシー)を備えていない業者がプレゼンする。

・その講師よりも、さらにリテラシーの低い人たちが受講する。

 

今の東京ではいろんな国・地域の不動産を扱うセミナーがありますが、所謂「情弱セミナー」で使われるフォーマットは、それこそ判で押したように似てまして、、

・日本の人口減少と経済・財政不安、地震・放射能リスクなど、「日本の将来のヤバさ」を強調する。

・それと対置して、海外(不動産売りたい国)のバラ色の情報を与えて、「今がチャンス、すぐ買いましょう!」と煽る。

 

日本にいろんな問題があることは誰も否定しないし、将来不安があるのもその通り。ただ、同じ座標軸でフラットにみた時、「日本がヤバいのは分かるけど、でも、その海外の国は本当に問題ないの?」と正面から問われると講師がまともに答えられない。問題をきちんと整理して答えるだけのリテラシーがない。

特に昨今は、世界中の経済が変調してるから、海外に関する知識があって、まともな思考力のある人なら、「日本がだめで、海外は大丈夫」みたいな二元論に妥当性がないこと位、すぐ見破ってしまう。

業者側は、それが分かってるから、自分たちよりさらにリテラシーの低い人たちをセミナーに呼んで、お客さんにするわけです。その構図は、日本国内の不動産投資における「二大情弱セミナー」に酷似しています。その心は、

1)不動産投資を知らないサラリーマン向けの、「新築ワンルームマンションセミナー(恐怖の満室想定グロス4%)」

2)不動産投資を知らない地主向けの、「土地活用・建売マンションセミナー(なんちゃって30年家賃保証つき)」

 

いずれも、リテラシーの低い人たちの不安や射幸心を煽って、結果的に自分たちの売上利益が最大になるように誘導する特徴があります。不動産投資を少しでも知ってしまえば、「こんなもの買ってもカネにならない」ということが分かるし、「人様に損させるような、こんな商品売りたくない」みたいな良心がうずく人も出てくるでしょうが、そこはうまくできたもので、「営業マン使い捨て」システムにより、結局「リテラシー低い営業マンが、さらにリテラシー低い客に売る」構図が延々と続いていくことになります。

ことが海外不動産になると、国内不動産よりさらにウブな世界になります。海外の経済や不動産市場に関する知識が、国内に比べて圧倒的に乏しい上に、言葉の壁があって、多くの人はセミナーで得たあやふやな知識を、検証する術もないから…

 

こんな状況だから、私思うんです。「海外不動産で大金を手にするなら、たぶん、情弱ビジネスやるのが一番効率が良い」と…私は世界各国の不動産情報が集まってくる立場にいるから、やろうと思えば、まじで、できちゃうかも。

でも、やりません。私は、そんなつまらんことやりたくないし、不安煽って高額商品買わせるスキルもない。それに、人様に損させる商売なんて長続きしないでしょ?

それよりも、セミナー参加者(会員)とともにリテラシーをどんどん高めて、海外の不動産投資でどんどん成功して、皆で豊かになりたい。この世界で、末永く、活躍していきたい。その気持ちで、5年前にアジア太平洋大家の会を立ち上げましたし、その心は今も変わっていません。

 

海外不動産をネタとして扱いつつ、情弱ビジネスに堕さない工夫は、何か?これまで、いろいろ試行錯誤してきました。

 

1)自分が海外不動産では「業者」の立場に立たない。「投資家」に徹する。

海外不動産を「業」、というか、メシのネタにしてしまうと、時には利益をあげるために、コミッションの高いクズ物件も売らなきゃならなくなり、結果、大家仲間である「会員」と利益相反してしまう。だから業者にはならないと、設立当初から決めていますし、今でもそうです。

ただ、「業者にならない」原則を、何があっても墨守するかといえば、そこまで厳しく考えていません。現実には、業者のポジションをとった方が、より多くの情報・スキルを得られることもあるのです。いまの私は、海外不動産の取扱業者ではありませんが、彼らの一部業務の代行くらいはやっています(特に頭を使う高付加価値の業務)。

いまの到達点からみれば、自分が業者になるかならないかよりも、「生活に困ってない」ことが大事かもしれませんね。家族や社員を食わせるためにプレッシャーを感じると、意に染まないクズ物件を紹介する羽目になってしまうかもしれない。でも食うに困らなければ、自分の良いと思うことだけやれる。

「生活に困らない」ためには、「低コストでオペレーション」することが大事。いまの日本では、人を雇ったり、外注したりすると高くつくことが多い。だからアジア太平洋大家の会の運営に関しては、私と副会長の二人で、自分でメルマガ書いて、自分でシステム構築・運用して、自分でセミナー動画撮って編集・配信して、作業外注するにも単発アルバイト程度…それを5年間続けてきました。あと移動も激安LCCか激安高速バス、宿泊は激安ホテルが基本です。

あとは、「生活に困らない」だけの収入を得ることも必要ですね。いまの私は海外不動産を主なメシの種にしてない代わりに、国内不動産の売買仲介で生活しています。こちらは、外国人を相手にすることもありますが、ガッツリ、ビジネスしてお金いただいてます。

 

2)会員・セミナー受講者の海外不動産リテラシー向上を主目的に掲げる。

こちらも、会の設立以来、心がけています。私たちが目指すのは海外不動産の販売セミナーではなく、受講者が海外不動産の情報や知識、スキルを高めるためのセミナーです。

ただ、私たちの主催セミナーは、業者の販売セミナーと、一見、区別がつきにくいかもしれません。現時点では、業者が私にアプローチしてきて、「この物件売りたいから協力して欲しい」という依頼から、セミナーを組み立てることが多いからです。

ただ、内容に関しては、毎回、セミナー講演資料に目を通して、会員の知識・リテラシー向上に寄与するよう、所謂「情弱セミナー」フォーマットに堕すことがないよう、業者さんにガッツリ要求させていただいた上で、セミナーを開催しています。

また、上記のような物件販売セミナーの他、会の独自企画として「失敗体験の共有セミナー」とか、「海外物件の管理・入居づけセミナー」とか、「融資づけセミナー」、「海外不動産の税務・法務セミナー」などを開催しています。

 

3)業者からコミッションをもらわない?

これも会の運営上、大事なテーマです。私たちが業者から販売コミッションをもらう問題点は、主に二つあると考えます。一つは、「コミッションもらうと、会員に物件買わせる方に誘導してしまう」リスクがあること、もう一つは、「万が一、業者が違法行為をして訴えられた時に、コミッションをもらってると共同不法行為に問われる」リスクがあることです。

それは本意ではないので、私は、販売コミッションをもらうよりも、コミッションをゼロにして、代わりに、セミナー開催費を業者からいただく方向に、移行しようと試みてきました。でも実際は、業者側からコミッションシェアにして欲しいという要望も強いのです。理想と現実のはざまで、柔軟に、ケースバイケースで判断しています。

 

こんな感じで、皆様の知識、リテラシー向上に役立つ海外不動産セミナーをお届けしようと、5年間、頑張ってきました。まだまだ改善点は多いですし、引き続き、進化を続けていきたいと思います。

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ハプニング欲しい、アクシデントいらない

こんばんは、Manachanです。

波乱万丈のベトナムから、一昨日、マレーシアに戻りました。ホーチミンからクアラルンプールまで、わずか2時間足らずのフライト。距離は近いですが、マレーシアはベトナムに比べて近代的に整備されて、しかも国際的。時計が15年くらい進んでいるようにみえます。

今回のブログは、昨日のブログネタ「4・1レンタルバイク盗難事件」を、もう少し深掘りしてみます。

 

旅先では、いろんなことが起こります。予期せぬ出来事は、それはそれで、旅の良い思い出になるものです。そういうものを「ハプニング」と呼びます。

但し、ハプニングが楽しい思い出になるのは、自分がなんとかコントロールできる状況にあればこそです。コントロールきかず、勝手知らぬ環境下、誰かに運命を握られてしまうと、楽しいどころではなくなります、それを「アクシデント」と呼びます。

旅という非日常体験、多くの人は「ハプニング欲しい、アクシデント要らない」と願うことでしょう。ただ、ハプニングとアクシデントの境界線は微妙で、旅人のスキル・経験値によっても変わってきます。

 

私は、長年バックパッカーやってきた男。世界各国でハプニングもアクシデントも、たくさん経験しています。

私がこれまで経験したアクシデントのなかで最悪のものは、「1989年12月、フィリピン・マニラ滞在中にクーデターが起こり、自分の居場所の1㎞先で銃撃戦。結局2週間も足止めを食らい、かつ混乱のなかでパスポートが破損。日本に帰れなくなった」ことですね。あの時は、在マニラの日本人神父さんにお金を借りて、日本大使館でTravel Documentを発行してもらって、命からがら、帰国したものです。

あと、インドでは1989年初にA型肝炎もらったり、2008年に凄い頭痛で救急車で運ばれたこともありました。ああいう、身体がきかない状況になると、自力ではどうにもならないので、確実に「アクシデント」ですね。

 

一昨日体験した、「4月1日エイプリルフール、レンタルバイク盗難事件@ホーチミン」(詳細はこちら)ですが、これ、同じ場所で同じことが起こっても、人によっては「ハプニング」で済み、人によっては「アクシデント」になりうる、典型的な事例だと思います。

この事件、一言でいうと、「海外(マレーシア)への出発を5時間後に控えたタイミングで、パスポートが手元にない状態で、レンタルバイクを盗まれた」、「レンタルバイクを返すか、弁償するか、いずれかをしないと、パスポートが取り戻せない」という状況でした。

 

後知恵になりますが、事件前に、私が犯したミスや改善ポイントはいくつかあります。まず、「バイクを借りる時にパスポートを預けてしまったこと」…他の方法、例えばパスポートのコピーとデポジットの現金だけ預けてバイク借りる方法があるかどうかを、検討することはできたかもしれません(もっとも、自転車じゃなくて比較的高価なオートバイなので、デポジット預けるにしてもかなり高額になっていたはず。ベトナムは保険とか普及してなさそうだし…)。

もう一つは、「夜中11時にバイクを停める際に、ホテルではなく近くのお店の前(路上)に停めてしまったこと」…バイクドロボウの多いホーチミンの事情を考えれば、これは間違いなく軽率な行動であり、弁解の余地ありません。

ですので、次回、ホーチミンでバイク借りるなら、「パスポート預ける以外の方法で借りる」、「面倒臭くても絶対に有料駐車場に停める」ことは心がけますが…でも今回、私の言いたいことは、それじゃありません。

 

SHIT will happen even if I do nothing…. 人間、どんなに気を付けていても、望まない出来事は起こります。世の中、リスクゼロはありえません。

リスクを予見して、備えることは必要ですが、悪いことが起こった時に、いかにリカバリーするか…その知恵や胆力の方がずっと大事だと思います。

 

私、バイクがなくなった時に、本能的に、こう思いました。「これは、アクシデントではない。ハプニングだ」。「ハプニングだから、必ず解決できるはず」、「解決の過程で、面白いことがたくさん起きるはず。それも楽しみ!

 

とはいえ客観的にみて、事件発生時に、問題解決に必要なリソースが、私に決定的に欠けていたことは事実です。事件発生場所は、ベトナム・ホーチミン。私はバイク盗難の際、ベトナムの人々がどのように処理するのか知識が全くないし、ベトナム語も片言しか話せない。身分証明書(パスポート)は手元にないし、しかも5時間後に出発が控えている。時間もない。

何もかも手探りな状態で、まず、何をしようと思ったのか?「何でも良いので、手がかりを探そう」、「まずは動いてみて、事件解決に必要なヒントを探そう」…それが、私の本能が出した答えでした。

 

もちろん、最悪の事態も想定しました。それは、「パスポートを失うこと」。オートバイ弁償するお金なんて、どうってことない。でも、パスポートだけは何とか取り戻さないと、当面ベトナムから出られない。だから、パスポート奪回を、当面の目標に据えました。

たぶんそのためには、警察のお世話にならなければならない。身分証明書もない、現地語もろくに話せない、無力な外国人が何を言っても、現金以外に何も信用してもらえないだろう。でも警察という公権力の力を借りれば、レンタルバイク屋にうまく話してくれるかもしれない。

 

そう思っているところに、現れたのが、バイクで通りすがりのベトナム人男性。彼は少しだけ英語が話せます。彼が信用できる人物かどうか分からないが、少なくとも「日本語で話しかけてくる怪しげな現地人」ではないし、当の本人が、「まず、盗まれたバイクを見つけて、そのあと警察に届けにいこう」というプランを提示してくれたので、それに乗ることにしました。

結果論からいうと、彼の提示したプラン通りに物事は運ばず、結局、1時間半後に手切れ金2000円位渡して別れたわけですが…こんな少額な出費で、「バイクドロボウ市マーケット」なる、むちゃくちゃ面白いもの見せてもらったので感謝しています。

彼と別れた後に、出会った人間がことごとく正解でした。「英語を流暢に話す女性商店主」、「英語話せて仕事ができる若い警察署員」、「宿泊先ホテルの英語コミュニケーター」…運が良かったです。彼らの力を借りつつ、警察に事案を処理してもらった結果、12時頃に無事、バイクが発見され、パスポートも手元に戻すことができたのです。

 

時は前後しますが、10時を過ぎた時点で、13時25分に予約していたマレーシア行きのフライト搭乗は絶望的と判断。それを放棄して夕方16時20分の便を予約する方針に変え、事案解決に必要な「時間」というリソースを得て、心に余裕ができたのも良い判断だったと思います。

これまで、旅先での数々のトラブル経験から身につけたスキルこそが、落ち着いた心で物事をコントロールし、一歩間違えれば「アクシデント」になりかねない出来事を「ハプニング」にとどめたのだと思います。結果的には、「マレーシアへの片道フライト代1万円」+「撤去手数料&手切れ金5000円」、わずか1万5千円の出費で、むちゃ面白い体験ができたので得した気分です。

 

最後に、今回の事件が起こった時、私一人の単独行動で良かったです。この非常事態にビビッてしまう同行者がいたら、ここまで落ち着いて短期解決はできなかったことでしょう。

いや、違う、同行者の資質にもよるのかも…たとえば、一昨年11月、香港国際空港で起こったハプニング。同行者I氏と二人でいた時、モンゴル・ウランバートル行きの便がキャンセルされて、視察が不可能になるかどうかの瀬戸際で、「とりあえず北京に飛び、そこでウランバートル行きの深夜便にキャンセル待ちで乗る」という荒業を考え、北京の空港職員に4400元握らせて見事、翌朝ウランバートル入りに成功したことがありますが、それができたのは、同行者I氏が「なんとかなるさ~」と、楽観的に構える性格だったからですね(ブログ日記はこちら

 

・想定外の事態に対するストレス耐性

・「なんとかなるさ~」という、楽観、自信

 

その二つが揃えば、旅先のトラブルに冷静に対応する基礎体力ができるのだと思います。逆に、想定外ストレスに耐えられず、「万が一のことがあったらどうするんだ?」と血相変えてビビる人や、「何重にも保険をかけて安心を得たい」人の場合は、厳しいですね。健全なリスクを取って行動することを知らない人たちは、本来ハプニングで済むことをアクシデントにしてしまったりするのです。

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ホーチミンでレンタルバイク盗まれた話

こんにちはManachanです。ベトナム5日間にわたる、3都市での不動産行脚も終わり、無事、マレーシアに戻ってきました。

最終日、ホーチミン市滞在中にレンタルバイクの盗難トラブルに巻き込まれて、警察署や派出所に出頭したりバイクのドロボウ市に行ったりと、普段なかなかできない体験をしました。ま、とりあえず一件落着したのでブログ書いてるわけですけどね。

 

『3月31日、ホーチミンでバイクを借りる』

私、今回ホーチミンでは1泊しかできない時間の制約があり、短時間にできるだけ多くのエリアを回って皮膚感覚をつかむために、「バイク借りて自由行動」という選択をしました。

外国人バックパッカーの溜まり場「ファングーラオ通り」には、格安で借りられるレンタルバイク屋がたくさんあります。私が借りたのは、24時間乗り放題7USドルの激安価格。デポジット(預け金)も必要ありません。その代わり、バイク返すまでパスポートを店に預けなければなりません。

「パスポートを人質に取られた」状態で、とりあえずバイク借りて、3月31日の午後5時過ぎ、ファングーラオ通りを出発。まずは南に向かい、4区、7区方面を目指す。

ホーチミンは、どこへ行ってもバイク、バイク、バイクの海…密度もすごい。自分の前後左右にいるライダーと接触しそうになりながら、排気ガスにまみれて乗るのは、慣れないうちは、かなり神経を使います。路面状態も良くないし、クルマには思い切りクラクション鳴らされて交通弱者の屈辱を味わうし、交差点で直進するバイクと左右方向から進入してくるバイクが入り乱れるとまじカオスだし、皆、歩道を当たり前に走るしマナー滅茶苦茶(でも気づいたら、行儀悪い私も歩道を爆走していました…)。

 

【ホーチミンのカオスな交通事情のなか、バイクライダーになる】

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交通ルールなんて、あってないようなものだし、バイク用の車線もない。右折したければなんとなく右側に寄せる、左折ならなんとなく左側…とにかく、自分と同じ方向に行きそうなバイクについていく感じで乗るんですね。

あと、バイク借りた時点でガス欠寸前だったので、ガソリンスタンドを一生懸命探したり、片言のベトナム語で聞いたりしましたが、本当に見つけにくくて苦労しました。タイあたりに比べると、ベトナムのガソリンスタンドは少ないし、目立たない。

そんな感じで最初は苦労しましたが、走行10kmを超えると慣れてきて、涼しい夜風に吹かれて快調に飛ばす。まずは4区、7区、ニャーベー県方面を郊外まで走り、一区に戻るとガソリンスタンドで給油できたので、元気回復、調子に乗って今度は北を目指す。ビンタン区、2区、9区、トゥードゥック区まで進み、帰りは3区経由で1区に戻る。たぶん80㎞くらい走ってましたかね。宿に戻ると夜11時近くでした。

 

【慣れてくると、お店で小休止したり】

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【ショッピングセンターの地下に停めたり】

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【遠くの郊外まで、足を延ばしたりしました…】

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もちろん、乗り物がバイクなので停車が必要。本来ならホテルの人に一言いって、ガードマンに頼んで安全な場所に泊めてもらうべきでしたが、疲れ切っていたのでそこまで知恵が回らず、ホテル近くのお店の前、バイクが7~8台位停まっている場所(レタントン通り251)に一緒に停めて、スマホで写真をとって、そのままホテルに戻って寝てしまいました。いま考えると、その軽率な行動が悲劇のはじまりでした…

 

『翌朝、4月1日のエイプリルフールに、嘘みたいな出来事が起こる』

私はいつも早起きで、日の出前に起きる自信があるのですが、東京、クアラルンプール、ダナン、ハノイとハードな移動が続き疲労がたまっていたのか、目が覚めたら7時過ぎ、お日様は高々と上がっていました。メールの返事を書き、朝食を摂ると、時間はすでに8時過ぎ。

昨晩、その辺に停めたバイクのことが、少しだけ、気になっていました。お店の人に怒られてるかもしれないと思いつつ、現地に行ったら、我が目を疑いました。

 

バイクが、ない!

【バイク盗まれた現場】(251 Le Thanh Ton St.)

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昨日、7~8台停まっていたバイクが、全て跡形もなくなって、その場所に飲食店が営業していました。店の邪魔だから移動されたのかと思い、数軒先まで見てみるけど、どこにもない。

 

昨晩のうちに、盗まれた?それとも、違法駐車で撤去された?

 

違法駐車で撤去されたのなら、罰金払って取り戻せば良いのでマシだけど、盗まれてたら、まじで取返しがつかない。そもそも、撤去されたバイクがどこに行くのかを知る術さえない。ここは勝手知らない異国ベトナム・ホーチミン、言葉も通じない。習いたての片言ベトナム語なんて、この非常事態に役立つようなシロモノじゃない。英語か、あるいは日本語、中国語のどれかを話す現地の人に動いてもらわないと解決できない。

ふと、レンタルバイク屋に預けたままのパスポートのことが、胸に去来しました。そして、今日13時25分発のエアアジア便でクアラルンプールに飛ばなきゃならないことも…残された時間は少ない。

そこに、たまたまバイクで通りがかった40歳くらいのベトナム人男性が、少し英語を話せるので、事情を話してみたら、

 

「たぶん、それは盗られたんだよ。バイク屋に行って取り戻してきて、その後、警察に届け出ればいい、俺が連れていってあげるから、後ろに乗りな。」

 

そんなに悪い人には見えなかったし、とにかく、手がかりが欲しかったので、バイクの後ろに乗ってみる。で、連れていかれたところは結構遠くて、ハイバーチュン通りを西にずっと進み、橋を渡って、フーニャン区に入ってしばらく行ったところ。盗難現場(?)からの距離は4㎞くらい。

そこでは、道の両側に、ものすごい数のバイクショップがありました。「とにかく、一軒一軒回って、ナンバーをみて、盗まれたバイクを見つけたら一緒に警察に行こう」と言われたので、私はその言葉通りにしました。店の人にブツブツ文句言われても無視しつつ、大急ぎで15軒くらい見ましたが、私が昨日乗ってたバイクは、見つかりませんでした。

仕方なく、その男性のバイクの後ろにまたがり、1区に戻る。ベンタイン市場近くの、派出所らしきところで下されました。時は、すでに9時30分。残念ながら、バイクの手がかりはない。10時か、遅くても11時までに解決できないと、私は飛行機に乗れない。この人の言う通りにしても無理だと判断した私は、彼にいくばくかの手切れ金を渡して、独自行動をはじめました。

 

【ホーチミンの派出所は、こんなところ】

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まず、その派出所に入り、「指さしベトナム語会話」を使って、「セーマイクアトイビトロム(Xe May cua toi bi trom、バイク盗まれました)」とベトナム語で言ってみる。派出所にいた、4人ほどの男性はベトナム語しかできず、なかなか意思疎通ができない。すると、一番年齢の若い職員が、近くの商店で、流暢な英語をしゃべる女性を紹介してくれました。

ようやく、まともな英語を話すベトナム人と出会えて、話がどんどん進む。その女性が言うには、

 

ホーチミンで盗難に遭ったのなら、事情はどうあれ警察に処理してもらうのが最良の策だと・・・

 

ホーチミン1区(District)にはいくつかの地区(Ward)があり、盗難場所から考えて、ベンゲー(Ben Nghe)地区の管轄だから、同地区の警察署に行くべきだと…その言葉通り、バイクタクシーに2万ドン払って、その警察署(274 Ho Tung Mau St.) に向かう。

警察署になると、さすがに派出所と違って、まともな英語を話す男性警官がいました。私が事情を話すと、

 

「分かりました。私が事案を処理して、レンタルバイク屋と話しをつけますから、すぐに、宿泊先ホテルに連絡して、英語を話すコミュニケーターを連れてきてください」と。

 

「あれ、私たちいまちゃんと英語で話してるじゃないですか?それでもホテルのコミュニケーターが必要なんですか?」と聞くと、

「警察の職務として、外国人の通訳サービスは提供していないんです。誰か他の人にやってもらわないと…ここ1区はどのホテルにも英語のコミュニケーターいますから」

 

私は言われるまま、ホテルに電話連絡すると、コミュニケーターがあと15分くらいで警察署に来てくれるという。すでに10時半を回っていました。なんとか、英語できる人に動いてもらえる体制はできたけど、まだバイクの手がかりはないし、パスポートさえ手元にない。この状態で、13時25分の飛行機に乗るのは、もう無理だろうなと諦めはじめる。

10時45分頃、コミュニケーター(ホテル職員の女性)がバイクで警察署に出頭。彼女によれば、「盗難現場のすぐ近くの派出所」(40-42 Le Anh Xuan St.)で、レンタルバイク屋の同席のもと、事案を処理しますので、一緒に行きましょうと。バイクの後ろに乗せてもらって再び移動。

まず派出所に行って、彼女の通訳を通して職員と話す。次にファングーラオ通のレンタルバイク屋に行って、私のパスポートを預かっている店の男性と、通訳を通じて話す。そして一同揃って、再度、派出所に向かう。到着は11時半。この時点で、私は13時25分のフライトは断念し、とにかくパスポート返してもらって、次の飛行機を予約する作戦に切り替えました。クアラルンプールでは今晩、ビジネスパートナーと会食の予定があったので、LINEで到着が数時間遅れる旨を話す。

その後、15分ほど待ったでしょうか?コミュニケーターが、「バイクのキー、持ってますか?」と聞いてきました。「はい、あります」、財布に入ったキーを取り出し、彼女に渡す。

 

「バイクのキー…もしかして、バイク見つかったのかな?」

 

案の上、その通りでした。私の借りたレンタルバイクは、昨晩、違法駐車で撤去されて、派出所の室内に移動されていたのです!

 

【12時間ぶりに、バイクと対面!】

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昨晩、駐車してから12時間ぶりに、バイクと対面。ちゃんとエンジンかかるんじゃん!撤去処理手数料50万ドンを払い、レンタルバイク屋まで乗って、パスポートを返してもらって、全て一件落着。

その後、コミュニケーターのバイクでホテルに戻り、WIFIでPCつなげて次のクアラルンプール行きのフライト予約にも成功、16時15分発のマリンドエア便で、クアラルンプールに飛ぶことができたのです。

コミュニケーターと、派出所の人にお礼を言った後、近くの店で食べたフォーとビールの味が、忘れられないほど美味かったです。警察トラブルの後、「シャバの味」は最高ですね。

【幸せの黄色いハンカチで、高倉健が網走刑務所から出所して初めて食ったラーメンみたいだ…】

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【今回の地図つくりました】

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地名に歴史ありーベトナム編

こんばんは、Manachanです。今日は朝から晩まで、ハノイの東から西へ、不動産物件を見まくって、とても充実した楽しい一日でした。

不動産を生業とする者の習性として、どの土地に行っても、地図を頭に入れながら歩き回ったり、地名の由来に思いを馳せたりするものです。それは、ベトナムという外国でも変わりません。

 

Hai Bà Trưng(ハイバーチュン)とかBạch Đằng(バクザン)とかTrần Hưng Đạo(チャンフンダオ)とか、ベトナムのどの都市に行っても、よく出てくる地区名や街路名がありますね。調べると、 その少なからぬ割合が、ベトナム歴史上の人物の名前で占められています。彼らの多くが武将や皇帝、革命指導者であり、「戦役で外敵を破って、ベトナム民族の独立を守った」英雄です。

現在のベトナムの領土が、漢民族の文書に出てくるようになったのは、今から約2000年前、イエス・キリストの時代にまで遡ります。それ以来、ベトナム民族の歴史は、息つく暇もない位、戦争に次ぐ戦争の連続。ざっくり言うと、前半の1000年間は中国の支配下にあり、後半の1000年間は独立国家として生きてきたわけですが、いずれの時代も、外敵と戦い続け、並々ならぬ犠牲を払って、インドシナ半島東側の領土を守り続けてきました。

 

ベトナムにとっての「外敵」は、多くの場合「中国・漢民族」だったわけですが、時には「モンゴル(元)」、「シャム(タイ)」、「フランス」、「アメリカ」などを敵に回して戦いました。ベトナム人は昔から筋金入りの「戦う民族」だったのです。

だから、ベトナム史上、それぞれの時代に、「外敵と戦った英雄」がいて、そこに非常に多くの人名が出てきます。彼らの名前は、ベトナム中の道路や地域の名前を埋め尽くしています。今回は、代表的なものだけをとりあげますね。

 

Hai Bà Trưng (ハイバーチュン、徴姉妹の乱、西暦40-43年)

「古代ベトナムのジャンヌ・ダルク」

ホーチミン、ハノイを含め、ベトナム各都市でよく目にする地名ですね。これはイエス・キリストの昔、中国の「後漢・光武帝」の時代に、ハノイ周辺に実在した人物の名前です。ハイは「2」、バーは「婆」(女性の意味)、チュンは「徴」…つまり「徴」姓の2人姉妹(徴側と徴弐)で、ベトナム民族の祖先だったと思われます。

ハノイ周辺が、中国人によって「交趾」(コーチ)と呼ばれ、属領にされつつある頃、現地の豪族であった徴姉妹が、周辺の豪族を味方につけて、西暦40年、後漢政府に反旗を翻し、周辺地域を3年間だけ支配しました。光武帝は馬援将軍を派遣し、反乱鎮圧を命じました。徴姉妹も抵抗しましたが力及ばず、西暦43年、馬援の軍に殺害されました。

徴姉妹はベトナム人の間で、今日でも英雄として語り継がれています。馬援に討たれるまでのわずか3年間を「ハイバーチュン時代」と呼んでいるほどです。なお、この時代は日本の福岡市近辺にあった「奴国」が後漢光武帝に朝貢し、「金印」を授かったのとほぼ同時期です。北部九州の人には感慨深い事実ではないでしょうか?

 

Battle of Bạch Đằng River (バクザン、白藤江の戦い、938年、981年、1288年)

「ベトナムの関ケ原決戦」

ベトナム第三の都市・ダナンのメインストリート「バクザン通り」をはじめ、ベトナム各都市にある地名ですね。

徴姉妹の乱から900年の長きにわたり、ベトナムは中国歴代王朝の支配下にありましたが、西暦939年、ついに独自の民族王朝「呉朝」を持つことができました。そのきっかけとなったのが、938年の白藤江(バクザン河)の戦いでの勝利。ハノイの北東「ハロン湾」付近にある河口が決戦の地になりました。

勝てば独立、負ければ異民族の支配…「ベトナムの関ケ原」天下分け目の戦いに、呉権率いるベトナム軍は、小舟を使った巧みなゲリラ戦術で中国(南漢)軍を見事に撃破して、ベトナム民族による国家を地上に現出させました。

その後も、白藤江はベトナム対中国王朝の決戦の地になりました。981年、前黎朝 と 北宋による戦いはベトナム側敗北。1288年、陳朝 と 元による戦いはベトナム側の勝利になりました。

 

Trần Hưng Đạo (チャンフンダオ、陳興道、1228~1300年)

「ベトナムで元寇を撃退した英雄」

ホーチミン1区に「チャンフンダオ通り」がありますね。ベトナム人の歴史上の人物のなかでは、日本人に比較的知られている名前かもしれません。

彼は大越陳朝の王族・武将。1257年、モンゴル軍が侵攻してきた際、大越軍を率いて蒙古軍を大いに破り、1282年からクビライが建てた元による侵攻を受けると、チャンフンダオは大越軍の総司令官に任じられ、巧みなゲリラ戦を繰り広げて元軍に大勝しました。

ほぼ同時期、日本にも元の侵攻(元寇)があり、九州・福岡周辺の武士たちが勇敢に応戦。台風にも助けられて独立を守りました。巧みな戦術で元軍を打ち破ったチャンフンダオは日本人の心を打つベトナム人の一人ですね。

 

Phạm Ngũ Lão (ファングーラオ、范五老、1255~1320年)

「ベトナムの諸葛孔明」

ホーチミン1区、バックパッカーの安宿が並ぶ一角「ファングーラオ通り」。その地名の由来は、前出チャンフンダオに仕え、元王朝への抵抗戦争で数々の戦功を納めた名軍師「ファングーラオ」。

 

Lê Lợi/Lê Thái Tổ (レロイ/レ・タイト、黎利/黎太祖、1385~1443年)

「明朝を打ち破った、ベトナム中興の祖」

ホーチミン1区に「レロイ通り」があり、ハノイのホアンキエム湖沿いの周回道路に「レ・タイト通り」の名前が付けられています。その由来は、後黎朝大越国の初代皇帝「レロイ」(廟号は「レ・タイト」)。

1406年の明の永楽帝によるベトナム侵攻とその後の支配に抵抗。明の勢力をベトナムから追い払い、ハノイで黎朝を開きました。軍事面だけでなく政治家としても大きな成果をあげ、均田制・科挙制などを導入、諸法典の整備に取り組みました。

 

Nguyễn Huệ (グエンフエ、阮恵、1753~1792年)

「ベトナムのナポレオン、国の南北でシャム軍と清朝を打ち破った天才将軍」

ホーチミン1区の目抜き通り、歩行者天国の「グエンフエ通り」がありますが、その由来は、18世紀に活躍した、ベトナム西山朝第2代皇帝にして、同国史上最も成功した軍司令官の一人でもある「グエンフエ」。

「ベトナムのナポレオン」とたとえられるほどの戦上手。ベトナム南部では、ラックガム=ソアイムットの戦いで広南阮氏の残党とシャム(タイ)の連合軍を破り、ベトナム北部ドンダーの戦いでは黎朝残党と清王朝の連合軍を破っています。

 

Đề Thám (デタム、提探、1858~1913年)

「フランス植民軍に抵抗した提督」

ホーチミン市1区の安宿街が並ぶデタム通り。その由来は、ホアン・ホア・タム、またの名をデ・タム(タム提督)。彼はベトナム北部・北江省の安世県を中心に25年にわたって繰り広げられたフランス植民地政府への反乱である安世起義の指導者です。農民兵を組織し、巧みな戦術で何度もフランス軍を撃退しました。

 

Nguyễn Thị Minh Khai (グエンチミンカイ、阮氏明開、1910~1941年)

「ホーチミンの妻(?)にして革命同志」

ホーチミン3区やハノイのハイバーチュン区に「ミンカイ通り」がありますが、その由来はベトナムの女性革命指導者「グエンチミンカイ」。

1930年にミンカイは香港に赴き、当時「阮愛國(グエン・アイ・クォック)」と名乗っていたホー・チ・ミンのコミンテルン極東支部秘書となりました。翌年、ミンカイとホーチミンは互いにひかれあい、結婚を計画していましたが、ミンカイが破壊活動の容疑で英国警察に逮捕・投獄されたため、二人の仲は引き裂かれ、ミンカイは1940年にフランス植民地政府に捕縛され、翌年銃殺されました。

ミンカイの名前を冠した地名や学校名はベトナム中にあります。

 

Lý Tự Trọng (リ―トゥ―チョン、1914~1931年)

「17歳でフランス軍に処刑された革命殉教者」

ホーチミン1区、日本人街レタントン通りと並行する長大な通り。私の常宿もあるお洒落なエリアですが、地名の由来は、フランス植民地時代、1931年にホーチミンで革命デモを起こし、わずか17歳で処刑され命を落とした少年「リ―トゥ―チョン」。若き殉教者として、その名はベトナム人の心に刻まれています。

 

…こんな感じで、ベトナムの歴史は戦いに次ぐ戦い。苦難のなかで、ベトナムのために命をかけた人々の名前が語り継がれ、地名になったり、学校名になったりしているわけです。

その歴史に思いを馳せながら歩くベトナムも楽しいものですね。この知識は、ベトナム人と仲良くなったり、また不動産投資の面でもきっと役に立つと思いますよ。

 

【ホーチミン1区東部】

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【ホーチミン1区西部~3区】

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ダナン(ベトナム)vsセブ(フィリピン)…、東南アジア観光都市対決

こんばんは、Manachanです。私は先ほど、ベトナム中部の美しい街・ダナンを後にして、首都ハノイに飛んできたところです。

人生初のダナン訪問。本当に、行ってよかった。観光地・保養地として、素晴らしいコンテンツ、ポテンシャルを持つ街ですね。ダナンを中心とする中部ベトナムは、海の魅力、グルメの魅力、文化の魅力を全て兼ね備え、東南アジアでも有数の総合力だと思います。

 

・都市と海、両方の魅力を持つ「ダナン」
・古都にして街全体が世界遺産の「ホイアン」、「フエ」
・長大な白砂のビーチに連なる「リゾートホテル群」
・グルメに可愛い小物…女子旅に最適。

 

【一見、長閑な地方都市にみえるダナンですが…】

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【実は、大観光地】

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観光地ダナンの魅力は、日本でも、徐々に認知されてきていますが、すでに欧米人の間では人気沸騰のようで、ダナン国際空港、ビーチリゾート、ホイアンの土産屋・飲食店、どこに行っても白人観光客があふれていました。シニアな年齢の方々、子供連れの方々、どちらもたくさんいましたね。

東南アジアで、ダナンに一番タイプの似た都市はどこか?私の行った範囲でいうと、「フィリピンのセブ」でしょうかね。この二都市は多くの点で、共通しています。

 

・街のサイズがほぼ同じ。
・海と山に囲まれた地形がそっくり。
・都市とビーチが隣り合っている点も同じ。
・いずれも国際空港があり、拡張工事中。
・どちらも外国人に人気の観光都市。
・国内大都市の観光客にも人気が高い(ハノイ、ホーチミン⇒ダナン、マニラ⇒セブ)

 

【観光客急増で、ダナン空港拡張中。】

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どちらも、甲乙つけがたい魅力を持ちますが、あえて甲乙つけてみると、

 

・都市周辺のビーチは、ダナンの方が勝る。セブ(マクタン島)のビーチは、ホテルとホテルの間が分断されていたりするけど、ダナンは数十キロにわたって白砂のビーチが続き、まるでゴールドコーストのよう。

・但し、セブの場合は海を渡ればボホール島やネグロス島、またセブ島の南部に素晴らしいビーチ・ダイビングスポットが多いので、周囲の島まで含めるとセブの魅力が勝る。

・ショッピングの面では、セブの方が勝る。セブのアヤラモールは素晴らしいし、新開地SRP地区に東南アジア最大級のSMモールも完成。ダナンには、これらに匹敵する商業施設はない。

・食文化・グルメの面では、ダナンの魅力が大きいですね。ベトナム料理はとにかく美味しくてヘルシーだし、中部ベトナムで特色のある料理も豊富。

・産業、特にサービス業では、セブの発達度が上。英語圏のメリットを活かし、ソフトウェア、コールセンター、英語教育産業が大きく発達。ダナンもITに力を入れているけど、セブに比べると落ちる。ベトナム人英語得意でないのが辛い。

・文化的なコンテンツでは、ダナンの方がバラエティ豊か。すぐ近くにホイアンやフエ、ミーソン遺跡など、悠久の歴史を感じさせる観光地が周辺に多い。

 

【値段が高くても、安くても、うまい。ベトめしに、まずいものなし!】

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物価は、両者似たようなものですね。10㎞くらいタクシーに乗ると、セブでもダナンでも500円くらい。麺料理などは、ローカルが食べる安いもので150~200円。宿泊施設は高級リゾートから安宿までピンキリで、1泊4~5万円以上するリゾートはどちらにもある。2000~3000円クラスだとダナンの方が小奇麗な宿に泊まれる印象でしょうか。

あと言うと、セブの方が見た目の貧富格差が大きく、ダナンの方が所得が平均している印象ですね。セブの場合、豪邸街やショッピングセンターは凄いけど、その周りに貧しい住民の掘っ立て小屋みたいな住宅も目立ちますが、ダナンの場合、そういうものが見当たらない。その代わり、セブほど富裕層の華やかな消費生活を感じさせるものがまだなく、全体的にのんびりした印象。

なお、道路の整備度合いはダナンの方が上、治安も全般的にダナンの方が良さそう。但し、セブでもアヤラモール周辺やITパーク周辺にいれば、環境が整備されて快適だし、近代的かつ都会的。一方、ダナンでここまで垢ぬけた場所は見当たらない。

 

【都会度と消費生活では、セブに軍配。アヤラセンターとビジネスビル群】

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海と都会を楽しめる、東南アジアの観光都市対決、結論は、

 

・美味しいもの食べて、安心できる環境でまったり過ごしたいなら、ダナン。

・英語を学びつつ、都会と自然のメリハリある環境で過ごしたければ、セブ

 

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生活コスト3分の1のオーストラリア

こんばんは、Manachan@マレーシアです。

3月26日の朝7時過ぎ、クアラルンプール国際空港に着くと、外気温すでに31℃。空港の外に出ると熱気と湿気がムワッと…我が家は今年1月にタイ・バンコクに行ったばかりですが、ここマレーシアもタイ同様、常夏の国。

でも高速道路で市内に向かうと、マレーシアの風景は隣国タイとは似ても似つかないことに気づきます。とにかく土地が広くて、樹林と未利用地が多い。人家が少なく、その割に車の交通量は多い。大雑把な風景のなかに時々、高層マンションや戸建住宅地、ショッピングセンター、ガソリンスタンドなどが出現する。

どこかで見覚えある景色だなあ…私が知る限り、ここと一番似ているのは、「オーストラリア」。そう、不思議なことに、マレーシアとオーストラリア、いろんなところが、やたら似ているんです。同じ旧英連邦で地理的にも近いので、オーストラリアの影響大きいんでしょうね。

 

クアラルンプール郊外の景色、これが「オーストラリア」といわれても、私は違和感ありません。

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ショッピングセンターからみる外の景色。緑地や空き地、建物の感じが、オーストラリアの都市近郊っぽい。

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クアラルンプール周辺は、分かりやすくいうと「ニュータウンの集合体」。プトラジャヤ、サイバージャヤ、ペタリンジャヤといった郊外衛星都市に、無数の、「港北ニュータウン」に似た地域が点在し、そこに学校、病院、商業・娯楽施設、高速道路I/Cなど、人々の生活に必要なものが計画的に配置されています。

今回はその一つ、プトラジャヤにある「IOIリゾートシティ」に行きました。港北ニュータウンというよりは、オーストラリアの住宅地にそっくり。

ショッピングセンターの設計、入居テナントからして、オーストラリア各地で展開する大手SC「ウェストフィールド」と景色がダブる…ウェストフィールドでよくみかける、Target、Priceline、Harvey Normanに瓜二つの店舗が、ここにある。飲食店のラインアップも、オーストラリアの中流層が好みそうな「オーガニック野菜と肉料理のモダンな西洋料理の店」とか、「ゆったりと広いカフェ」、「寿司バー」の類が目立ちます。

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フードコートの雰囲気も、オーストラリアとよく似ています。この写真だけ見せて、「オーストラリアのアジア系住民の多い地域のフードコート」だと言われたら、信じてしまうかも。

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さらに、値札もオーストラリアに似てますね。フードコート内のプロモーション(割引価格)で9.9。ジャパレスの「うどん」や「丼もの」の値段が10.9~14.9。

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ただ、決定的に違うのが、「通貨と物価」。オーストラリアだと、フードコートで食べる肉うどんの値段が「12.9豪ドル」。マレーシアだと「12.9リンギット」ですから、

1豪ドル=3リンギット
1豪ドル=84円、1リンギット=28円
肉うどん・・・オーストラリアで1084円、マレーシアで361円

 

食べ物に限らず、タクシーや電車の運賃、書店で売ってる本や雑誌の値段、スーパーで買う飲料の値段、家賃や民泊の宿泊料なども、おおむね、マレーシアとオーストラリアの値札は同じ。電化製品とか車はともかく、日常品においてマレーシアの生活物価はオーストラリアの約3分の1ということになります。

いろんなものがオーストラリアとそっくりで、かつ値段3分の1ならすごくお値打ち感がある…と思います。もちろん、日本からみても明らかに物価安いので、移住先、ロングステイ先としてマレーシアは人気があります。ロングステイ希望国ランキング、2006年から9年連続、1位ですからね。

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「1位マレーシア、2位タイ」という、アジアのツートップも定着してきましたね。日本から近くて行きやすい、住んでる人間が同じアジア人種だし、食べ物も米・麺ベースなので馴染みやすい。物価が安くて、その割にまとも…というのが人気の理由でしょうか。

(余談ですが、マレーシアに来ると私は、地元民だと思われます。それどころか、うちの家族は全員、英語か中国語で話しかけられるのに、私だけマレー語で話しかけられたりします。同胞だと思ってくれるのは構わんけど、早口のマレー語で話しかけてもSatuとかAndaとかBanyak-banyak位しか分からんぞ…)

近年、ヨーロッパ諸国が、ランキングからほぼ姿を消し、人気の国は東南アジアか英語圏先進国に限られてきましたね。そのなかでオーストラリアが若干、人気を落としているのは、「物価が高い」イメージのせいでしょうか。

 

マレーシアは、「一応、英語圏」なので、子供に英語を学ばせたい親たちにも人気があります。ここは多民族国家で、マレー系、中国系、インド系等、いろいろいますが、基本的に皆、英語を話しますすし(というか、種族間の意思疎通やビジネスのため英語は必須)、英語ベースのインターナショナルスクールの類も豊富にあります。

移住当初は、「マレーシア人が日本人にも聞き取りやすい英語で話してくれる」となかなか好評。中華系はともかく、マレー系住民の母語は日本語に似た音韻体系を持っていて(ほぼ「あいうえお」だもんね…)、ローマ字っぽい英語で話すので聞いて理解しやすい。

ただ、マレーシアの暮らしや英語教育に慣れてくると、ここが「なんちゃって英語圏」であることが分かり、物足りなくなってきます。皆、母語はマレー語や中国語であり、第二言語として英語を学んでいる。確かに英語は話すけど、ネイティブじゃないと…

そこで、「ホンモノの英語圏」で暮らしたい人、学業を続けたい人は、オーストラリアやニュージーランドとかに行くわけです。

とはいえ、日本人が英語や海外暮らしに慣れるための「ゲートウェイ」として、マレーシアの利用価値は大きいですよね。生活コストも安いわけだし…。

 

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マレーシア星ヶ丘物語

こんばんはManachanです。今朝、マレーシア・クアラルンプール(KL)に着きました。家族4人で、都心部のコンドミニアムに滞在しています。いわゆる「民泊」ですが、広くて、とても気に入っています。

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私たちが滞在する場所は、「KLの新宿」と呼ばれる繁華街ブキビンタン(Bukit Bintang)から、モノレールで1駅目Raja Chulanのすぐそば。ブキビンタンの駅から歩いても10分かかりません。

いまのブキビンタン、ものすごく都会的で、人出も多く賑やか。マレー系、中華系、インド系、中近東系、欧米系…世界中のいろんな民族が集まる場になっています。

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ブキビンタンには、世界主要都市の百貨店と比べてもひけを取らない超豪華な「パビリオン」をはじめ、ハイエンドな商業施設がいくつかある一方で、東南アジアらしい、怪しげな個店が集まる「スンゲイワン・プラザ」や「BBプラザ」等もあり、いずれも賑わっています。

私は「スンゲイワン・プラザ」大好き。いつもここで、DVDを買ったり、食材を調達したり、携帯電話のSIMロックをはずしたり、散髪したりしています。

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ブキビンタンという地名、Bukitが「丘」、Bintangが「星」の意味。日本風にいえば「星ヶ丘」。名古屋の地下鉄駅みたいで、おしゃれな名前ですね。

私が初めて、マレーシアを訪れたのは1992年。当時のKLは、大都会になった今からは想像もできないほど、小さく、シンプルな街でしたが、その時代から、星ヶ丘、もといブキビンタンはKL随一の商業中心地でした。

 

1992年当時は、アジアで先進国が日本だけしかなく、韓国、台湾、香港、シンガポールが「アジアNIES」とよばれる中進国、あとは全て発展途上国だった時代でした。

東南アジアでいうと、当時、近代的な都会といえばシンガポールとバンコク位しかありませんでした。マレーシアの首都KLは、「えっ、これでも首都なの?」と驚くほど、こじんまりとした、日本でいう「地方の県庁所在地」レベルの街でした。現在の「カンボジア・プノンペン」と似たような都市レベルだったと記憶してます。

 

・現在の都心CBDであるKLCC地区は、まだ開発前で更地だった。当然、「ペトロナス・ツインタワー」もなかった。
・セントラル駅の裏手は、一面の森で、「タマン・ラマラマ」(蝶々の公園)と呼ばれていた。
・セントラル駅からチャイナタウンまで、1~2㎞の間は一応、市街地が続いており、旅行者の多くはそこに泊まっていた(それ以外の選択肢がなかった)。この一帯の商業店舗といえば、見渡すかぎり個店ばかり。
・セントラル駅から5~10㎞も離れると、ゴムのプランテーションが広がっていた。

 

とはいえ、貧乏ではなかったです。マレーシアは昔から、少ない人口で豊かな資源を占有している国だから、街が小さくてシンプルとはいえ、他の東南アジア諸国にはない、生活水準の高さは感じました。当時の私は、KLを離れて、地方都市のテメルロー(Temerloh)やジェラントウット(Jerantut)にも足を運びました。そこには平屋建ての商業施設が一つあるだけ、みたいな状態でしたが、それでも皆さん、まともな家に住んで栄養も十分のようで、貧しさとは無縁のようでした。

でも、KLは一国の首都なのだから、マダムや娘さんがおめかしして行くような百貨店の一つや二つはあるはず。よく見たら、その機能はブキビンタンが一手に担っていました。

当時、ブキビンタンにあった「伊勢丹」が、KL、いやマレーシアで唯一、近代的な百貨店と呼べる代物でした。今のプノンペンでいう「イーオンタウン」みたいなものですね。伊勢丹を中心に、建ち並ぶいくつかの商業施設と、人々の賑わい…商都ブキビンタンがあるからこそ、KLはマレーシアの首都でいられるのだと思いました。

 

あれから20数年、KLはものすごく変わりました。KLCC地区は高層オフィスビルが林立して摩天楼と化してますし、大型百貨店、ショッピングセンターは、星の数ほど建ちました。商都ブキビンタンも、時代にあわせて進化・グレードアップを続けています。

活気あふれるブキビンタン。これからもKLを引っ張っていく存在でありつづけることでしょう。

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不動産は情報で売る!

こんにちは、Manachanです。

私は2013年2月に、「ロックアウト解雇」という劇的なかたちでサラリーマン渡世に別れを告げました。その後しばらく、失業保険で露命をつなぎつつ、「不動産仲介業者」という第二の人生を歩み出しました。東京・五反田にささやかな事務所を構えたのが2013年12月、宅建業者登録をしたのが翌14年1月のこと。

独立当初は本当に、お金がありませんでした。所謂「カードローン起業」というやつで、サラリーマン時代につくったカードローンの融資枠を使って、ちょびちょび引き出しながら、仲介手数料が入る日を夢見て、頑張る日々。区役所や公庫の創業融資にもチャレンジしましたけど、結局、資金の振り込みは起業の1年近く後だったし…

14年1月に独立して、最初に決めた仲介が3月末、その後4月5月6月と、全く、成約から遠ざかり、カードローン枠もほぼ使い切りつつある頃、「このまま仕事決まらないと、まじでやばい」と思った私を土壇場で救ったのは、長年のブロガー経験で身につけた「文章力」でした。

当時、是が非でも決めたかったのが、千葉県柏市若葉町、74坪土地の仲介。アパート建売業者の買い希望額と売主の期待値と900万近いの差があり、平行線、このままではまとまらない。でも売主はとうの昔に残債を払い切っており、いくらで売っても生活には困らない。要は売る気にさせれば良い…そこで考えたのが、「手紙作戦」でした。

私は心を込めて、こんな手紙をしたためました。

 

私は先日、土地の購入申込をさせていただきました、不動産仲介業者の鈴木と申します。

私、生まれも育ちも柏です。東1丁目に住み、柏三小に通っていたので、若葉町界隈のことは、自分の裏庭のようによく知っています。

私は昨年まで都内勤めのサラリーマンをしており、副業として、不動産投資を行っていました。これまで賃貸アパートを2棟建てましたが、2棟とも、九州・福岡市の三和エステート社という、建売業者に建てていただきました。

福岡市は賃貸住宅の激戦区。業者間の競争も激しく、各社とも知恵をしぼって、入居者に支持されるアパートの間取り・デザインを考え抜く土地柄。私自身は福岡で、三和エステート社の賃貸住宅のデザインをみて、衝撃を受けました。

単身住宅ながら4m近い天井高があり、空間を上手に使って、広く快適に見せる工夫、女性入居者が1階でも安全に暮らせる工夫、巨大な床下収納スペースを設け、モノが増えてもずっと住み続けられる工夫・・・まさに知恵の結晶。福岡で生まれ、東京では誰も見たことのない素敵な住宅。

「この住宅を、私の生まれ故郷・東葛地区で建ててみたい」と思った私は、昨年、松戸市で土地を仕入れ、6戸のアパート建てました。首都圏で三和エステート社のアパートを建てたのは、私が初めてです。

ほぼ同じ時期、不本意ながら、私は勤め先会社をリストラされてしまいました。一家4人を食べさせていくために、私は不動産業者となり、都内で開業しました。

いま私は、東葛地域で、三和エステート社の賃貸住宅を建てるための土地仕入れを、業として行っています。若葉町の土地は、8戸のアパートの建設用地として、収支計算をした上で、2900万円で買い付けを入れさせていただきました、

大幅な値引きになるのはもちろん承知しておりましたが、74坪の土地は40坪2区画に分割するには狭すぎ、かといって、そのままの区画で建てると8戸しか入らない(8戸を超えると柏市では駐車場附置が義務づけられるので、戸数を増やせないのです)。

2900万円以上出せないと、回答してきた買主様に対し、私は、「若葉町は柏市内でも有数の良質住宅地で土地柄が良い。是非ここで建てたいので、もう少し頑張って欲しい」と依頼し、若干の手数料調整を経て、3000万円で再買い付けを入れました。正直、お値段的にはこれが限界です。

古家撤去、および残地物撤去は、買主様の負担でやっていただくことで、了承を得ました。ご迷惑かけませんので、是非とも、3000万円で契約させていただけませんでしょうか?

生まれ故郷の柏に、良質な賃貸住宅を増やしたい。その一念で日々、精一杯仕事をしております。私の気持ち、ご理解いただき、是非とも良いご縁を賜りますよう、お願いしたいと思います。

結局、この手紙作戦が功を奏し、私は7月、晴れて仲介手数料を手にして、ピンチを脱出!とりあえず一息ついたのでした♪

 

最近でも、こんなことがありました。台湾人の投資家に、首都圏の収益戸建を紹介していたときのこと…

・埼玉県春日部市の戸建に、340万円で買付を出していただいたが、タッチの差で、他のバイヤーに買われてしまった。

・ちょうど同じような価格帯・家賃帯の戸建が、千葉県茂原市で出たので、「320万円で買えます」と紹介したが、茂原という場所が都内から遠すぎて、全然イメージできないという理由で敬遠されていた。

 

この話、どうやってまとめようか…東陽町のカフェ・ヴェローチェで思案していたところ、ふと思い浮かんだのは、2年近く前に、私を生活苦ピンチから救った「手紙作戦」でした。

「そうだ!あれと同じことを、台湾人に対してやればいいんだ」と思い、日本語の手紙ならぬ「中国語のメール」をスマホでタイプして、買側の仲介に送りました。

 

「茂原戸建的亮点」・・・以投資人的角度來看,我自己覺得千葉縣茂原市的房子更好。
 
– 茂原市雖然離東京的距離遠一些,但它是生活機能齊全的小城市,擁有自己的產業,商圈,教育,醫療機關等等。該物件是在茂原市的中心。離開火車站,AEON Mall商場,小學,醫院都很近。而且正好在Japan Display公司的研發式旗艦工廠的前面,有大規模的雇用機會。這裡算是人家嚮往的地方之一。另外,茂原火車站有特快車直達東京,僅60分的車程。
  
-讓我比喻一下,在台灣的話,茂原市的那房子有點像中壢的市中心的房子。
 
 (茂原市戸建のハイライト…投資家の見方でいうと、千葉県茂原市の戸建はとても良いと思います。茂原市は東京から多少の距離がありますが、生活機能が一通り揃った地方都市。産業があって、商業施設、教育・医療施設が一通り揃っています。この物件は茂原市の中心にあり、鉄道駅、イオンモール、小学校、病院へのアクセスも良い。そして、すぐそばにジャパンディスプレイ社の基幹工場、研究開発拠点があり、雇用機会へのアクセスも十分。地元では皆が住みたがる場所です。そして、茂原駅は東京へ鉄道直通しており、特急列車で60分で着きます。台湾にたとえていえば、茂原市の戸建は、台北から多少の距離がある自立型都市・中壢市の中心部にある住宅に相当するかと思います。)

 

「手紙作戦」ならぬ、「中国語メール作戦」で決めた売買…昨日、契約決済を済ませてきました♪

 

 つまるところ、不動産、特に投資用不動産の売買 は、「情報産業」だと思います。買い手が数字で判断する投資家なので、彼らにいかにして適切なタイミングで必要十分な内容とクオリティのある情報を届けられるか…それで勝負が決まってしまう。つまり、投資家向けに適切な情報をつくれる人、発信できる人が勝者になるのです。

 

特に国境を超える不動産取引になると、「情報が、新しいマーケットを創出する」原動力になります。例えばの話、千葉県茂原市周辺には、数百万で買えて、年10%以上で回る収益戸建がたくさんありますが、買い手がこの地域をイメージするのが難しい。私は千葉県出身ですが、同じ県内でも茂原なんて行く機会もなければ、知識もほとんどない。西日本出身者や外国人なら尚更でしょう。

 

だからこそ、買い手のニーズにあわせたかたちで、「茂原」の情報をつくって、タイムリーに届けてあげる…そのことで、「台湾人が千葉県茂原の戸建を買う」という、これまでになかった取引・経済的価値が実現するのです。まさに情報産業そのものですね。

 

 最後に、「茨城県鉾田市の戸建も台湾人に売って欲しい」という依頼を受けたので、先ほど、こんな文章を書いて送りました。

 

日本茨城県鉾田市(Hokota City),距離東京90公里,是個富裕的農村。最出名的當地名牌農產是哈密瓜,產量躍居日本第一名。鉾田市的農業總產值539億日元,是全日本排第五。幸好它的位置離東京不遠,它的產業結構以高價值的農產品為主。這裡的田地除了當地農民以外,也有不少來自中國越南泰國的青年來工作。因此住宿需求也可觀的。
 
鉾田市並不偏遠,離成田國際機場60-70分鐘,離茨城機場30-40分鐘的車程。從東京車站有直達高速巴士到鉾田市,每天有6班。鉾田市本身有5萬人口,有5家銀行(分行),3所高中,4個超市,以及大商場Across mall。
 
用台灣的比喻,鉾田市是幾乎等於,台中市的大甲,清水,沙鹿等地吧。因為這些地方靠近大海,離大城市不遠,農業發達而生活水平不錯的小鎮,有很多與鉾田市共同之處。

(茨城県鉾田市は、東京から90キロ離れた、経済的に豊かな農村です。ここの名産はメロンで、生産量は日本一。鉾田市の農業生産額は539億円で、日本の全市町村のなかで堂々の5位。高度消費地・東京から近いおかげで、高付加価値のブランド農産物中心の産業構造になっています。ここの農業は地元農家のほか、中国、ベトナム、タイなどから来た研修生によって支えられており、住宅需要も堅いといえます。鉾田市は辺鄙な場所でありません。成田空港から車で1時間余り、茨城空港からだと30~40分です。東京駅から直通の高速バスも出ており、1日6便運航しています。鉾田市の人口は約5万人で、銀行の支店が5つ、高校3つ、スーパー4つある他、アクロスモールというショッピングセンターがあります。台湾にたとえていえば、台中市の大甲,清水,沙鹿あたりに相当する場所かと思います。海に近く、大都市からも遠くなく、農業が発達して生活も豊か、というところが似ています。) 
 

 こんな文章で、売買決まるかなあ?

 
 

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海外不動産、仕事人の日常

こんにちはManachanです。久しぶりのブログ更新になります。

先週の日曜日、東京・大手町で行われた「世界の資産運用フェア」で、私はカナダRedev社のブースを任され、一日中、顧客対応をしておりました。

 

海外不動産関連のフェア、最近ずいぶん増えましたね。特に東京では内藤忍さんの資産運用フェアと、オウチーノ社の海外不動産フェアが、どちらも年に複数回開かれますし、あと海外に特化してるわけではないけど、全賃さんやHome’sさんのイベントでも必ず海外不動産ブースが出るし、まさに百花繚乱。

私、この種のフェアには必ず駆り出されて、いろんな仕事を任されます。特に昨年8月の資産運用フェアでは、時間刻みで台湾ブースとカナダブースをお手伝いして、他に講演・パネルディスカッションとかもやって、とにかく忙しかったな。

 

私、海外不動産に関しては投資家やマーケッターの立場に徹し、自らが業者にならないと決めています。「アジア太平洋大家の会」という、不動産オーナーの会を主宰している以上、自分の商売に利益誘導したくないし、中立で自由な立場でいたい、という判断からですが、

その代わり、日本で海外不動産を販売する業者の仕事の一部を、お手伝いすることはあります。それが日本人投資家の経済的利益に結びつくと判断した上での話ですが、

・日本国内に販売拠点や銀行口座を持たない業者の集金代行、契約代行
・日本の不動産税制に詳しくない海外業者に対する研修、キャッシュフロー表作成代行

等々・・こういう仕事、むちゃくちゃやりたいわけじゃないですが、私がそれをやらないと物事が動かなかったり、結果として投資家サイドが困ってしまうのでやることが多いです。

 

なかでも特に多いのが、「海外不動産保有に関わる、日本の税金」関連の仕事。海外物件売ってる業者で、日本で不動産確定申告の経験ある者は少なく、税金面に関する、日本人投資家の質問に上手に対応できる業者は限られる。また日本と海外の両方の税制に明るい税理士も、まだ少ない。

「おたくの物件買いたいけど、でも日本の確定申告はどうやればいいの?家賃収入にかかる所得税は?消費税は?土地建物比率は?減価償却は?譲渡益課税は?相続贈与はどうするの?」…次から次へと出てくる質問。その都度、私に業者からヘルプ要請が来る・・・セミナー企画して投資家を集客してる立場上、サポートせざるを得ないのです。

 

もっとも、確定申告の作業自体は、むちゃくちゃ簡単だったりします。上に挙げた、カナダRedev社の投資案件が良い例ですが、

これは、「カナダ商業店舗の一部を持分で所有して、テナントからあがる賃料収入から諸経費を差し引いた額を、持分に応じて年2回、分配を受ける」、「店舗の売却時に、売却益から諸経費を差し引いた額を、持分に応じて償還を受ける」というもので、

毎年2回の利益分配時には、カナダ側での税務処理を全て終えた額が入金されて来るので、領収書の仕訳も必要ないし、確定申告に記載すべき内容は極めてシンプルなはず。

 

「不動産所得の内訳」は1行で済むはずだし・・・

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「減価償却費の内訳」も1行で済むはず・・・

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(注・・私は税理士資格を持つ者ではないので、申告内容の詳細については担当税理士にお問合せいただいた方が賢明かと思います)

 

その、「申告書に書くべきことは、2行で良い」ことを、投資家や担当税理士に説明し、理解してもらう過程が実は大変だったりするのです。その間、たくさんの質問対応が発生しますし、やりとりの過程で「こいつ分かってないな」と相手に不安を抱かせてしまうと、質問がさらに増えたり、「エビデンスは?保障は?」みたいな、無用な仕事を抱えこんでしまうのです。

やりとりのなかで、どれだけ、投資家や税理士を安心させ、お互いハッピーなかたちで、Q&Aを最小限で済ませるかが、腕の見せどころですし、それが上手にできれば海外不動産の「仕事人」、「コンサルタント」として、付加価値の高い仕事ができていることになります。

 

私は、皆さんの見えないところで、そういう仕事をたくさんやってますし、各国の投資案件に関して、それなりに経験値も積んできました。

投資家や業者に必要とされるならば、

海外不動産購入後、最初の確定申告までのサポートを、私の会社で有料で請け負わせていただきます。

 

なお、サポートに含まれる業務は、

・海外不動産を確定申告する上で必要な事項の説明(海外不動産の評価、減価償却、家賃収入、海外で徴収される源泉所得税等々・・・)

・確定申告の書き方に関する助言(注.申告作業の代行はしません)

 

なお、確定申告の作業は、「一度やっちゃえば覚える」ものなので、二年目からは継続不要かと思います。海外不動産買って、不安でいっぱいの一年目を乗り切るために、私の経験知識を活用いただければと思います。

 

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