言葉を習うこと、教えること

おはようございます。Manachanです。

現在、我が家では、妻が日本語学校で毎日勉強中、私が仕事の関係でタイ語を勉強中。学習のペースメーカーとして、私のタイ語検定(4級)が6月7日に、妻の日本語能力試験(JLPT3級)が7月5日に予定されています。

というわけで、私と妻が同じ机(食事テーブル)で、それぞれの言葉を学習する機会も増えてきたのですが、ここにきて顕在化してきたのが、お互いの学習スタイルの違い。

私が学習中のタイ語を、我が家で分かる人はいないので、もっぱら妻が、私や子供たちに日本語を質問することになりますが、

私は、新しい言葉の習得には熱心でも、人に言葉を教えることには余り情熱を覚えない

ということに気づきました。たとえばの話、妻の言語バックグラウンドは英語と中国語で、日本語の「助詞」に相当するものがないので、そこで苦労しているのですが、

妻 「私は~です」と、「私が~です」はどう違うの?

私 「同じようなもんだよ」

妻 「私は東京に住んでいます」と、「私は東京で生活しています」と、どう違うの?

私 「同じ意味だよ。」

妻 「どんな時に、”に”を使って、どんな時に”で”を使うの?」

私 「そんなん知るかよ。そのまま覚えちゃえばいいじゃん!」

というふうに、私は大体の意味を覚えればそれでいいと思っているのに対し、妻は「正しい日本語」を緻密に覚えたようで(というより、日本語の先生がそれを期待しているようで…)、その辺が噛み合わない。

妻 「正しい日本語の言い方で言ってくれないかしら?」

私 「俺は日本で生まれて、40年以上も日本語使ってるんだから、俺が自然に話してる言葉が正しい日本語だろ!」

万事、こんな感じなんです。私の語学学習は極めて実用重視で、教科書的な覚え方をしてきてないのです。それどころか、私は教科書自体が面倒臭いと感じるし、そんなものロクに使わんでも、実地のコミュニケーションを通じていくつもの外国語をマスターしてきたのです。

でもそれは、私が多くの人と違うやり方で、脳味噌の違う場所を使って言葉を学んできた…ということであり、私のやり方が妻にはそのまま通用しない。妻は多くの人と同様、教科書的なやり方で、理屈で学ぶしかない。それは重々承知しているのですが、

でも私、教科書に沿って教えることに情熱を覚えないんですよねえ~。所謂「正しい日本語」、「美しい日本語」なんて全然興味ないし(たぶん出来ないし)、困ったものだ。

そこへ行くと、息子(6歳)の日本語の教え方は大したもので、「ママ、こうやって言うんだよ」と、いつもやさしく丁寧に教える…私にはとても真似できません。

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