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地震が怖かったあの頃・・・

こんばんは、Manachanです。

私は首都圏の東北方、「茨城に近い千葉」で生まれ育ちました。ちょっと聞こえ悪いけれど、私は赤ん坊の頃から、「地震とともに」生きてきました。

日本の国土は地球上の陸地の0.3%しかないのに、全世界の有感地震の約10%、マグニチュード6以上の地震の約20%が日本周辺で起こるという「超・地震国」。その日本のなかでも関東の地震頻度は高く、関東のなかでも「茨城・千葉県境付近」を震源とする地震は多い・・・というより、首都圏自体が「地震の巣」と言ってよい。

ま、私はそんな場所で育ったので、地面が揺れるのは、慣れっこ。

「震度2」なら、気づかない
「震度3」なら、「お~、ちょっと揺れてる」
「震度4」なら、「地震だねえ~」、でも涼しい顔
「震度5」以上で、はじめて、頭を机の下に隠す

なお、日本人の全てがこういう感覚ではないと思います。関西や、さらに西の地方では地震が比較的少ないようで、関東に来て、地震の多さに驚く人も多い。以前の職場で、大阪出身の同僚が、「関東人は震度4でも平然としてるね~」と感心していました。

関東人には毎度おなじみ、茨城県南部震源の中規模地震

そんな私でも、人生のなかで7~8年間だけ、地震とは無縁の暮らしを送りました。オーストラリア(シドニー)、中国(大連)など、地震のほぼ起こらない大陸の上で暮らした時期です。

大連勤務時代に、長期出張で東京に来たことがあります(私は日本人なのに、中国で就職して、ブーメランみたいに日本に送りこまれるって、因果な仕事だよねえ・・・)。東京での最初の住まいは「中央区の八丁堀」、1ヵ月後に「江東区の木場」に移りました。いずれもウィークリーマンション。

仕事が終わって、夜、一人で布団に入って寝付く時、私は言い知れぬ恐怖感を覚えました。「今晩、ここで大地震が起こったらどうしよう!」と。

思い起こせば、私は7年以上、「地面が揺れない」環境で過ごしました。そこからいきなり、東京という「世界有数の地震多発エリア」に来たわけです。それに、私のいる江東区や中央区は、お世辞にも地盤の良い場所とはいえません。どこ掘っても、地面はズブズブ、ユルユル。大地震が起こったら「東京一、揺れやすい場所のひとつ」とされています。しかも海抜ゼロメートル地帯。

また、地下鉄に乗るときも、「いま地震が起こったらどうしよう!」という、理屈では説明できない恐怖感に襲われたことがあります。地下鉄移動を少しでも短くするために、わざわざ一つ手前の駅で降りて歩いたことも何度かありました(冷静に考えれば、大地震が起こっても地下鉄の方が屋外よりは安全だとは思いますが・・・)

地震のない国の出身者が、日本に来た時に感じる「地震に対する恐怖感」とは、こんなものなのかもしれない。

あれから8年の歳月が経ちました。私は東日本大震災をはじめ、大小、無数の地震を、ここ東京で体験しました。でも不思議なことに、「地震が起こったらどうしよう!」みたいな恐怖感は、私の心から消えていきました

東京メトロ東西線に乗って、何百回も往復しているうちに、「この区間で地震が起こったら嫌だな」という気持ちも、きれいさっぱり雲散霧消。それに何より、我が家の周辺で日々繰り広げられる「高層マンション建設ラッシュ」を見ていると、「ここにずっと住み続けても、たぶん問題ないんだ!」という気になります。

豊洲にタワマンが建ち、江東区の人口がまた増える・・・

ここ東京で、地震が起こるのは当たり前、大震災のリスクも当然ある。でも、それをすでに織り込んで、大勢の人々が暮らしている。社会が、その前提で回っている・・・その中で暮らして、慣れてしまえば、恐怖心を持ち続けること自体が難しい。

ここ江東区は、震災リスクのデパートみたいな地域ですが、でも東京で一番、人口が増えているのも江東区。軟弱地盤に、50メートル以上の杭を打ち、今日も大規模マンションが建つ。新住民と子供が移り住み、年8000人ペースで増え続ける区内の人口。

喉元過ぎれば暑さを忘る・・・人間のリスク感覚なんて、所詮そんなものかもしれません。要は、慣れちゃえばいいんだよね。

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旦那はロボット

こんにちは、Manachanです。今回は家庭生活ねたでいきますね。

結婚して、子供が生まれると、夫婦ともども、生活は以前より忙しくなります。特に女性の生活は出産を期に激変し、当面は睡眠さえとるに任せず、著しい制約のなか、育児ストレスが溜まります。旦那は旦那で、養うべき人間も増えて、これまで以上に稼がなきゃならない。そんな時、

お互い、育児も仕事もがんばっているのに、夫婦仲がうまくいかない!

という、愉快ではない状況に陥る夫婦はとても多い。我が家も例外にもれず、出産後に夫婦間のいろんな問題が顕在化して、理想とはほど遠いまま、今に至っています。

我が家は国際結婚。妻は外国人で、日本語の読み書きが自由ではない。そんななかで、日本で暮らし、二人の子供を普通の幼稚園・小学校に通わせている…という特殊事情もあって、巷の育児書に書いてある夫婦円満アドバイスが、ほとんど役に立ちません。

日本の多くの育児書に書いてあること…たとえば、

1)夫がもっと家事、育児労働を分担すればいいじゃん?

これは、男性サラリーマンの労働時間が長いのに加えて核家族化が進み、育児負担が女親ひとりに集中する、戦後日本に典型的な問題であり、一人ぼっちで孤独な「孤育て」などが問題視されています。そんな中、仕事を上手に切り上げて育児をこなすニュータイプの旦那「イクメン」がもてはやされるのも、その裏返しです。

ですが私の場合、「イクメン」云々以前に、「妻が外国人」という特殊事情から、日本人同士の夫婦とは比較にならない負担が私にもかかってきています

子供の幼稚園や小学校の行事があって、いろんなプリントを渡される。母親が日本人ならそのまま読んで理解できますが、我が家の場合、私が読んで理解しないと何もはじまりません。子供が熱出したり、何か問題を起こした時、学校との連絡も日本語だから私がやらないといけない。日本語の宿題みるのも私の役割です。

日本の学校では、ママ友同士の情報交換でいろんなことが分かります。たとえば、明日の運動会の持ち物などは、プリント読まなくてもママ友に聞けば済む。しかし妻の場合、言葉のハンディがあるため思うに任せず、結局、私ひとりにしか頼れない…子供を病院や小児科、耳鼻科に連れていくのも、言葉の事情から私の仕事になります。

もちろん、妻が大変苦労して、頑張っていることはよく分かる。でも私だって、忙しい仕事を抱えながら、通訳込の育児・教育労働が、毎日続くのは結構しんどいです。子供の発達は常に順風満帆とは限らず、時には厄介な問題を起こします。その時、常に前面に立たなくてはならない。

「単なる通訳・翻訳だけなら大した時間とられないんじゃないの?」と思う方もいるかもしれませんが、言葉に限らず、妻が日本の社会や暮らし、教育システムに対して起こす「不適応」に起因するいろんな問題・課題が、私にふりかかってくるので、半端ありません。

日本人同士の結婚で「イクメン」なんて、すげー楽じゃん!

英米人の旦那が、家事育児を積極的に分担して偉い!とか言うけれど、英語圏に住んで夫婦とも英語ネイティブスピーカーなら、俺のやってることと比べて断然楽じゃん!

…というのが、私の偽らざる気持ちです。幼稚園や小学校、公文や病院への送り迎え、PTAの仕事、洗濯、風呂、布団の準備…プラス国際結婚の特殊事情、家事・育児に関しては、日本人男性としてあり得ない位の時間と労力を使っている自負があるので、「これ以上頑張って、奥様をサポートして!」なんて、私にアドバイスしてはいけませんよ(キレちゃうよ・・・)。

また、英語の育児書もいろいろ読んでます。日本より論点のバラエティ豊富でさすがと思いますが、よく指摘されるポイントが「男女の性差」。

2)そもそも、男性の脳と女性の脳は違う!

性差に関して、私の座右の銘は岡田斗司夫氏の「男とは、戦闘用・仕事用に開発された女」です。戦闘モードの脳で何百万年と暮らしてきたため、男性は物事を「特定目的」(Specific)にしか考えられず、その目的から外れたことには気づかない。その点、全人格的な女性とは大きな違いがあり、一緒に暮らすといろいろ齟齬が起こる…

これは、もちろん我が家にも起こっています。実際、私は病的なまでに、いろんなことに気がつきません。「よく気づく」妻から文句言われることも多い。

しかし、我が家の場合、「性差」だけで説明できる生易しい問題ではないという気がしています。もっと致命的な、厄介な問題があって、それがお互いの努力献身にもかかわらず、夫婦仲がいつまでも好転しない原因になっているように思えてきました。

それは、たぶん私の問題です。

私は、人間の顔をしたロボットみたいな生き物…

人面魚、人面犬(@妖怪ウォッチ)…みたいに、身体の半分が動物なら分かりやすいけど、私の場合、100%人間に見えるから厄介。

何度かブログに書きましたが、私は今年9月頃から、自分が「アスペルガー症候群」(高機能自閉症)ではないかと疑いはじめ、いま診療内科に通っています。

「アスペルガー」とは、平たくいえば「ロボットみたいな脳」…計算や論理操作は超得意、興味あることには寝食を忘れて没頭。でも人間に全く興味なくて、他人の感情とか、他人からどう見えるか?にはとことん無頓着。私もそうです。

ロボットだから、いつまでも、自分の好きなことだけやっていたい。嫌いなことはとことんやらない(というか、できない)。そもそも人間の心に興味ないから、共感もできないし、妻と同じ悩みを共有できない。「共に悩み、共に生きるパートナー」なんて、冗談じゃない。重苦しくて嫌です。

育児だって、親の義務だと思うから頑張ってはいるけど、楽しんでいるわけでは全然ありません。楽しいのは、二人の子供たちと話したり、遊んでいる時。相手がまだ人間になりきってないから、自然体
で楽しめるのです。実際、子供たちは私にはよくなついています。

でも親として、子供たちを教え導くとか、正しいマナーや社会のルール、生活習慣や規範を教えるとか、そういうことに、情熱は全く覚えられません。一応、「学校に時間通りに行く」とかはやるけど、「そんなんテキトーでいいじゃん!」というのが私の本音。

でもって、そういう育児に、こだわりたい妻と、常に衝突するわけです。「じゃ、そんなにこだわりたいならあんたがやって!」と言いたいところだけど、結局、何かを子供にやらせるのはある意味「汚れ役」だから、妻一人にやらせてもうまくいかないし、ストレス溜まるだけの話。

かといって、この面では妻の要求レベルと私の要求レベルが余りにも違うから、私がやると、一応努力はしても「すげーいい加減」になって、妻のストレスがさらに溜まるわけです…子供が生まれて9年間、そんなことの繰り返し。

あと、こんなこともありました…・妻は、近所の日本人ママ友の社交に入っていきたいのですが、日本語のハンディがあって、なかなか思うに任せない。そこで、日本語ができる私を使って輪に入って行こうと試みますが、私は残念ながら、ママ友との社交には全く興味がない。

私は大好きなコミュニティ「不動産投資仲間」なら、いくらでも喜んで社交しますけど、そういう話できない人たちとの社交に時間と労力を使いたくないのです。気疲れするだけだし、(ロボットの得意な)メールやLINEのやりとりだけで勘弁してよと言ってるのですが、妻はそれでは満足しない。

妻「あそこにママ友が集まって子供の写真撮ってるから、行って話してきてよ。」

私「俺は全然興味ない…」

妻「えっ?あなた日本語できるでしょ?」

私「そんなこと、なんで俺に頼むんだよ!友達つくりたいなら、自分でつくれよ!」

(険悪になる…)

ロボットの立場としては、「ママ友との会話で、分からない日本語を英語か中国語に訳す」みたいな「タスク」にしてくれれば処理できるけど、一個の人格である「ママ友」の輪のなかに入って欲しい、みたいな複雑なリクエストを実行させようとすると、怒ったロボコンみたいに回線がショートして煙が出てしまう。だから嫌なのです。

逆にいえば、ロボットな旦那と、言うこときかない子供たちと、9年間、よくも一緒に生活続けられたものです。その意味で妻の苦労は、想像を絶すると思います。

私が、なぜ診療内科に行ってアスぺの診断受けてるのかというと…

・俺は人間の顔したロボットなんだから、普通の人間のレベルを期待するのは諦めてくれよ!

・ロボットなんだから、モラルとかルールとか、テキトーにしかできないよ。厳密にやらせたいなら、コマンド入れて一から教えないと…

・ロボットなんだから、電気がないと死んじゃうんだよ。そして、PCやiPhone使って一心不乱に作業して、心を落ち着かせる時間を持たないと、生きられないんだ。

それを、妻に言いたいのです。理解していただきたいのです。当然ながら、私が言っても説得力ないから、専門医師の口から言わせたい。

それが、夫婦関係改善の一助になればと、思っています。なお、私がロボットであることが判明しても、それでも一緒に暮らしたいかどうかは彼女の判断しだい。

なお、私の方は家族ずっと一緒にいたいと思っていますよ。ロボットなりにね…

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ヘイトスピーチやめられない国で…

おはようございます。Manachanです。オーストラリア滞在、最終日。いよいよ帰国です。

いま日本で話題のトピックのひとつが、「ヘイトスピーチ法規制化」のようですね。

日本に限った話ではありませんが、他者(他国、他民族、特定地域・グループ等)への憎悪をあおる言説=「ヘイトスピーチ」は、社会の調和や平穏を乱す問題として深刻に捉えられます。ヘイトスピーチ自体が法律で規制されている国も少なくありません。

日本社会の文脈では、近隣国(韓国、中国)や、その国籍をもって日本に居住するいわゆる「在日」の人々に対する「ヘイトスピーチ」が表面化。今年7月には国連人権委からも勧告を受けています。

各国の人権状況を審査する国連人権規約委員会は7月24日、日本政府に対し、在日韓国人らに対する「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)と呼ばれる人種差別的な街宣活動に懸念を示し、差別をあおる全ての宣伝活動の禁止を勧告した。

8月7日には、舛添都知事が安倍首相に、ヘイトスピーチの法制化を要請、

東京都の舛添要一知事が7日、首相官邸で安倍晋三首相と面会し、ヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)に対し、「人権に対する挑戦。2020年五輪を控えた東京でまかり通るのは恥ずかしい」として法規制をするよう求めた。安倍首相は自民党内で対策を検討させる考えを示した。

これに対し、8月10日、保守派を自認する元航空幕僚長の田母神俊雄氏が ツイッターで懸念を表明。これに同調するように、いわゆる「ネトウヨ」界隈から、舛添知事や安倍首相に抗議のメールが殺到しているとか…

8月7日、東京都の舛添知事が安倍首相と会談し、ヘイトスピーチを法規制するよう要請しました。安倍首相は「自民党内で検討する」 と約束しました。これは保守派にとって、とんでもなく危険な話です。ヘイトスピーチの法規制は、保守派を黙らせ、左翼リベラルや外国人を利するだけのものです。

【国際結婚して日本に住んでいる身なので…私も同じ気持ちです】

冷静に考えて、今の日本でヘイトスピーチの法規制化は難しいと思います。

1)ヘイトスピーチと政治言論は紙一重で、境界線を引くのが難しい。誰が法制度を設計しても、特定の思想のバイアスがかかるし、規制の対象として何を想定するかによって、すぐ思想闘争のネタになってしまう。

2)通常、この手の法制化はリベラルと呼ばれる人々が熱心。しかし日本でリベラルは政治的に無力で、リベラル色の強い法規制の実現の目はたぶんない。

3)日本の政治・言論で力を持つ保守派は、概して、法規制化に消極的、懐疑的。

4)日本のヘイトスピーチの対象がしばしば近隣国(民)であり、かつ近隣国でも日本(国民)に対するヘイトスピーチの問題があるため、国際政治闘争の格好の道具にもなりやすい。

報道によれば、ヘイトスピーチ対策を自民党内で検討しているようですが、どういう表現を規制するのか?罰則規定を設けるのか?…そうした「各論」が出てきた時点で間違いなく反対続出。

結局、多くの人が納得できる線として、言論のなかに明らかな脅迫の内容が含まれているものだけ取り締まる。あるいは、ヘイトスピーチと暴力が結びついた、いわゆる「ヘイトクライム」だけ取り締まる、みたいな穏当な内容にならざるを得ない。罰則を設けるのも難しいでしょうし…

そうなると、「ヘイトスピーチ規制」をわざわざ法律にする必要あるの?という議論になるだろうな。現行法だって、名誉棄損や脅迫罪、侮辱罪もあれば、集団訴訟だってできるわけですから…

ただ、法規制化の目が薄いとしても、日本国をリードする政治家は、思想信条の如何にかかわらず、少なくとも、日本国憲法12条、13条が謳う、個人の自由・権利と公共の福祉が調和する言論環境をつくることに尽力して欲しいと思います。

憲法12条:この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

憲法13条;すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする

日本国民の自由と権利は最大限、尊重されるべき。しかしそれは、公共の福祉に反しない限り、という制限を受けます。

公共の福祉を阻害する自由の行使(=濫用)、たとえばヘイトスピーチは、許してはならない。ヘイトスピーチを繰り返す人間を、言論の場から排除するような仕組みをつくることに、尽力しなければなりません。オリンピック招致するような国ならなおさら…

ヘイトスピーチ法制化が難しくても、現行法体系の運用強化は十分可能でしょうし、また、ヘイトスピーチにつながる言葉や表現を自主規制する目的で、国際機関や欧米の公共機関・私企業で広く採用されているスピーチコード(Speech code)の日本での導入・普及にも前向きに取り組んでいただきたいと思います。

あと、タモ(田母神)さん、左翼リベラル主導のヘイトスピーチに、懸念を表明する気持ちは分かりますが…「左翼リベラル=ヘイトスピーチ反対」、「保守派=ヘイトスピーチ容認」みたいな印象を与えてしまうのは、たぶん、悪手だと思いますよ。

日本のヘイトスピーチは、在特会みたいな国粋派の専売特許じゃないでしょう?左翼だって、思い切りヘイトスピーチするじゃないですか?

震災以降、「放射能は微量でも危険」というテーゼに基づいた、反原発運動を展開。「福島は放射能危険、住めない、すぐ避難すべき、福島の農産物は忌避すべし」みたいな、特定地域や人々に対するヘイトスピーチを野放しにした責任は、「左翼」の方が重いでしょう。

ヘイトスピーチ対策の文脈で、「保守派」を守りたいのであれば、わざわざ自分たちだけを悪者にしなくてもいいのに…と思う。別に、私は保守派・ネトウヨにも、左翼にも、シンパシーを感じませんけど、傍からみて、どっ
ちもどっちだと思う。

右でも左でも、関係ない。日本は未だに、「ヘイトスピーチを許さない」という強い意志が感じられない社会だからこそ、この種の問題が、次から次へと、表面化するのだと思います。

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妻の家事ハラに思う…

こんばんは、Manachan@オーストラリアです。

いま日本では、「妻の家事ハラ」という言葉が、議論を呼んでいるそうですね。発端となったのは、旭化成ホームズの動画広告(リンク)。

共稼ぎの家庭で、まだたどたどしいながらも、家事を進んで手伝おうとする夫に対する、妻の厳しい言葉が、夫の家事参加のやる気を殺いでいる…という内容。たとえば

「お皿洗いありがとう。一応もう一度洗っとくね」
「かくし味とかいらないからね」
「早く終わったね。ちゃんとやってくれた?」
「あなたがたたむとヘンな跡がつくの」
「ちゃんと乾いてるかみせて」
「ずいぶん時間がかかるのね」
「いいのよ、頼んだ私のミスだから」

夫の茫然とした表情と、「その一言が、俺を皿洗いから遠ざけた…」という言葉が印象的な動画で、大企業の動画広告ということもあって世間に広く知られ、賛否両論が渦巻いているようです。

正直に言いますが、私、あの広告をみて、「そうだそうだ!」と、膝を叩きました。我が家は共稼ぎではなく、私一人が稼ぎ手の家ですけれど…家事をめぐって大喧嘩になるのは、たいてい、妻の一言と私の拒否反応が原因です。

自分が男性だから、そう思うのかもしれませんが…男と女では衛生観念も違えば、安全に関する感覚も違います。たいてい、女性の方が衛生に敏感だし、安全にも気が配れるもの…その反面、「男の気持ち」に関しては鈍感なことが多いと、世の女性をみていて感じます。

ただ、逆の立場になってみれば…あの広告をみて、多くの女性が不愉快な気持ちになるのも、よく分かります。

旦那が、「疲れて仕事から帰ってきて、休まずに、せっかく家事を手伝っているのに…なんだよあの言い方!」と激怒する時、

奥さんの方は、「何よ、こっちだって子育てで疲れているのに・・ちょっと位、皿洗い手伝ったからってドヤ顔しないでよ」と言いたいでしょうね。

そもそも、夫の家事参加、育児参加というのは、口でいうほど簡単なことではありません。細かいことまで夫婦間のすり合わせが必要なものです。その過程で、男女の性差、男のプライド、時間の制約、教育方針の違い…いろんな障害を乗り越えなければなりません。

子供が生まれると、女も男も、これまでよりは格段に忙しくなって負担も責任も増えます。核家族化の進んだ日本では、そもそも子育て自体、夫婦とも初体験で試行錯誤の連続です。思い通りにいかない無力感と、日々の疲労も手伝って、往々にして、お互いに対する思いやりを無くしてしまうものです。

家事の分担と、そこで起こる「家事ハラ」は、長く苦しい(?)夫婦生活の、小さな一コマにすぎません。

旭化成ホームズの動画は、あれを見ただけでは、確かに、「男性視点の一方的なもの」に映ることでしょう。後知恵ではありますが、

夫目線の「その一言が、俺を家事から遠ざけた」の動画と同時に、

妻目線の「ちょっと手伝った位で、イクメン気取りすんな!」の動画を流せば、ちょうどバランスとれてよかったのだと思います。

この種の動画は、教育・啓蒙として、とても意味あることだと思います。現代の日本で、共稼ぎ家庭が増えている以上、当然、夫婦の家事分担が当然という流れになる。

男女とも、お互いに不慣れなことなので、時間をかけて、教育によって解決していくしかない。

オトコに、オンナが満足する家事をやらせるって、そんな簡単なことじゃないんだよ

でもって、ちょっとしたオンナの一言が、オトコを傷つけるんだよ。それは知っておいた方がいい。

オトコだって、細かい作業は苦手だろうけど、ちょっと気をつけて誠意を持ってやれば、そのうち妻に感謝されるようになるよ。

そして、くれぐれも、暖かい眼差しは忘れずに…世の中、男と女しかいないのですから、この種の問題に、目くじら立てても仕方がないと思う。どちらが悪いとか、ギスギスしたこと言わないで、仲良くやりましょう。

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標準語は方言を駆逐する

こんばんは、Manachanです。

今日のブログは、久々に、「方言・訛り」ネタでいきます。

私たちはよく、「誰が訛ってる」、「あの地方の言葉は訛ってる」とか、よく言いますが、そもそも、「訛り」って、何でしょう?

日本語の世界では、首都圏や、在京マスコミで使われる言葉を「標準語」と呼び、他の地方で話される言葉は「方言」や「訛り」であると、上から目線で呼ばれることが多い。

英語の世界では、米国人や英国人の話し言葉が「標準」で、オーストラリアやニュージーランドの人間がしゃべる英語は「訛ってる」とされることが多い。

言うまでもなく、訛りは、相対的なもの。同一言語内で、ある地域・都市の言葉を基準に考えた時、そこから比べた語彙、言い回し、イントネーションの乖離があれば、「訛り」とみなされる。

私は一応、標準語(首都圏語)話者ではありますが、関西弁や広島弁を基準に考えたら、自分の言葉はたぶん、「すげー訛ってる」ことでしょう。

どの地域の言葉も、それぞれ、ユニークなはずなのに、ある言葉が「標準」で別の言葉が「訛り」とされる、その背景には必ず、「力関係」がある。人口とか経済力とか、政治とか…そういうものが、人為的に「訛り」という概念をつくるのだとも思います。

いま、日本のなかで圧倒的な力を持つ「東京」を擁する関東地方。そこの人間が話す言葉に、どういう現象が起こっているのか?

大東京の膨張に伴い、ここ50~60年、ものすごい勢いで、「言葉の均一化」が進んでいます。

もともと関東地方は、方言の宝庫でした。

それが今では、元からあった方言があらかた消え、北関東の東半分を除き、「首都圏語」(いわゆる「標準語」)が席巻しています。

分かりやすい例で言うと…SMAPの中居くんは、神奈川県藤沢市の出身、キムタクは、千葉市美浜区育ち。二人の話し言葉は、基本的には同じ「首都圏語」。

東京、神奈川、千葉、埼玉の、首都通勤圏であれば、県が違っても、同じ語彙、イントネーションを共有する「首都圏語」の世界になります。その話者人口、約4000万人!間違いなく、日本で一番メジャーな「方言」です。

その関東のなかで、首都圏語に同化されない方言のグループがあります。それが「栃木弁」と「茨城弁」。

お互いに、よく似た方言です。他地域の出身者には、たぶん区別つかないでしょう。話者人口、両県あわせて約400~500万人。

栃木・茨城弁は、イントネーションが、首都圏語とあまりにも違いすぎて、同化されようがないのです。どれ位、違うのかというと(ネタですが…)

振り込め詐欺と茨城弁 (byイバラキング青木先生)

ふだん標準語を話している人が、付け焼刃で茨城弁を習得しようなんて考えが甘すぎです。

東京の人がマネする茨城弁は茨城県民にはすぐにバレます~(中略)~振り込め詐欺の電話で、茨城弁の真似をして話そうものなら、「てめぇ、俺のごどバガにしてんだっぺ!このごじゃっぺやろが!」と怒鳴られ

あるいは…磯山さやか嬢の、強烈な茨城訛りを、ご堪能ください。

しかし、「関東の方言王者」茨城といえども、県南部の東京に近いエリアは、ここ30年、ものすごい勢いで標準語化が進みました。

私は、茨城からすぐ近い千葉県の出身。幼い頃、利根川の対岸は、取手、守谷を含めて、茨城弁一色の世界だったと記憶しています。

しかし今では、取手、守谷は、完全に首都圏語エリアになり、この地で茨城弁を聞くことはほぼなくなりました。

それもそのはず…取手から、JR常磐線で上野まで40分。守谷に至っては、つくばエクスプレス快速で秋葉原までわずか32分。当然、東京の郊外住宅地となり、他地域から移住する人が、地元民の数を軽く上回ってしまうのです。

移住者は、日本の各地からやってきて、誰もが、東京の言葉をしゃべろうと努めます。移住者が多数を占めれば当然、小中学校の言葉も標準語が主流になり、加えてTV、ラジオもオール標準語。両親とも茨城出身「いばらきっ子」でさえも、茨城弁を維持するのが難しくなる。

東京通勤圏が拡大するとともに、取手、守谷、つくば、竜ケ崎、牛久、土浦…標準語と茨城弁の境もどんどん北上していくのです。

東京から松戸、柏を通って、茨城県に至る「JR常磐線」は、今も昔も、首都圏不人気路線の代表格。昔は、敬遠された理由の一つに、「常磐沿線に住んで、子供に茨城弁が伝染ったら嫌だ」というのがありましたが(私、個人的には、標準語と茨城弁のプチ・バイリンガルになれたら素敵だと思うけど…)

今では、常磐線に乗っても、土浦より北に行かない限り、茨城弁を聞くことはほぼありません。基本、オール標準語の世界になってしまった。

茨城県内で東京に一番近い「守谷」で、「守犬」(もりけん)という、茨城弁をしゃべるキャラクターが登場したようです。でも、いま守谷に住んでる人間の大部分は、標準語話者のはずだから、「守谷で、いまさら茨城弁しゃべってもねえ…」という気がしないでもない。

水海道より北であれば、基本、みんな茨城弁しゃべるから、それなりにサマになるけどねえ。

このようにして、標準語は方言を食っていくのか…

でも一方で、標準語が茨城(&栃木)弁の影響を受けている面もあり、特に最近の若者の話し言葉は、イントネーションが尻上がりで、まるで茨城弁のよう。

言葉って、生き物。だから面白いですね。

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3年遅れの「デマりんぼ」

こんにちは。Manachan@名古屋へ移動中です。

GW前後の日本で、物議を醸している、ビッグコミック・スピリッツ(小学館)に連載中の「美味しんぼ~福島の真実編」もとい、「デマりんぼ~福島差別編」。5/12発売号で、またやっちゃいましたね。

もはや、内容がグルメでもなんでもない。単なる「鼻血炎上マンガ」じゃん。

【大阪まで敵にまわした美味しんぼ】

これまでの主な経緯は、「美味しんぼ問題の時系列的整理」をご参照ください。

5/12発売のスピリッツ24号では、震災瓦礫処理と放射線被曝との関連づけ描写で、福島だけでなく、大阪や岩手まで敵にまわし、内閣官房長官や国家省庁からも抗議のコメントを受けまくって、国を巻き込んでの大炎上。まさに四面楚歌。

福島県双葉町が公式に抗議声明 (5/7)

菅官房長官が批判「鼻血と被ばく因果関係ない」(5/12)

消費者庁「正確な情報で判断を」冷静な対応求める (5/12)

文科相 美味しんぼ描写「福島県民に迷惑」と批判 (5/12)

岩手県「漫画『美味しんぼ』での大阪における災害廃棄物の処理に関する記述について」

橋下大阪市長 「美味しんぼファンだが残念」 (5/12)

環境省 放射性物質対策に関する不安の声について」 (5/13)

すでに、福島の観光業に経済的実害も出ているようです。まじで裁判沙汰になるかも。

福島県・飯坂温泉で「美味しんぼ」の影響と思われる団体客宿泊キャンセルの実害 (5/13)

5/19日発売の最終号で、スピリッツは読者からの声や、有識者の声をまとめて掲載するみたいだけど、世間はそれだけじゃ許さないだろうね。

少なくとも、小学館、スピリッツ編集部は、「事実と反する」と言われた次の指摘事項に、回答しなければならないでしょう。

・双葉町…双葉町内で鼻血が多発しているという事実は「ない」と言っている
・大阪市…がれき焼却の現場で体調不良が多発しているという事実は「ない」と言っている。
・岩手県…がれき焼却前後の各段階で、放射線量が変化した事実は「ない」と言っている。

あとは、「福島での放射線被曝と鼻血との関連性は考えられない」とする、環境省や官房長官の指摘に対して、会社としての見解を示さなくてはならないでしょう。

小学館サイドが、上記に反駁するに足る客観的事実を示すことができない限り、公に「デマ認定」される。デマを広めて、福島の心を傷つけて、炎上商法で部数を伸ばそうした出版社という、ブラックイメージがついてしまう。

ですが、小学館が反論するに十分なデータをとっているのかというと、そうではないらしい。福島県のホームページによれば、小学館からの取材内容は次の通りだったという

(出版社から取材依頼のあった事項)
・「美味しんぼ」に掲載したものと同様の症状を訴えられる方を、他に知っているか。
・鼻血や疲労感の症状に、放射線被曝(※依頼原文では「被爆」)の影響が、要因として考えられるかどうか。
・「美味しんぼ」の内容についての意見

なんて頭悪い!鼻血なんて、誰だって出るじゃん。しかも、「被曝」と「被爆」の区別もついてないのか…こんなレベルの理解度と取材で、説得力ある事実を示せるわけがないだろう?

「表現の自由」だか何だか知らないけど、よくもまあ、日本を代表する大出版社が、科学的根拠のないデマを堂々と流すものだ。いわゆる炎上商法でしょうけど、5/19以降、その代償を、がっつり払うことになるのでしょうね。

ところで、今思えば、もし3年前に、この「鼻血マンガ」が出ていたら、世の中の反応は、今とはずいぶん違ったものになってたでしょうね。

大震災のショックがさめやらぬ、2011年の6~7月、9~11月あたりは、福島県はもちろん、関東においても、放射能恐怖がピークに達しており、ネット上でもリアルでも「デマ、風説」の最盛期でした。

当時は、「武田邦彦」(中部大教授)とか、「早川由紀夫」(群馬大教授)あたりが英雄視されてましたね(今では「デマ四天王」認定されて影響力ほぼゼロ…)。商業週刊誌の「放射能恐怖煽り」も、現在の比ではありませんでした。


私は、零細ながら日々ブログで情報発信する身。この放射能騒ぎ、実に愚かなものだと感じていました。

自分は化学工学の研究室にいたこともあります。セシウム134/137みたいな放射性物質は、地球上にある物質のなかで、おそらく一番定量的に測りやすいもので、その健康影響も、他の複雑な化合物(例えばダイオキシン)よりずっと研究・分析しやすいはずと考えていました。Webで少し調べただけで、この方面で膨大な科学的知見が蓄積されていることが分かりました。

数値で整理してみると、福島県で実際に人が住んでいるエリアでの線量なんて、健康影響を気にするレベルではない(リスクゼロとは言い切れないけど、他のリスクに隠れて見えなくなる程度)。ましてや関東の放射線量なんて、「こんな微々たるもの、どうして気になるの?」と思っていたけど、

愛知県日進市での花火大会で、福島県産花火の打ち上げ中止(2011/9/18)
京都の五山送り火で、岩手県陸前
高田市産の
松の使用中止(2011/8/7)

そんなニュースが日々飛び交う、SF小説ばりのシュールな日々。

だいいち、文京区の小学生が放射線を気にして柏市での課外授業を中止した位(同じ首都圏、だいたい30㎞も離れてないじゃん?)。異常な雰囲気のなかで、放射能ネタを書くのに、ものすごく気を使いました。

当時は今と違って、「放射能気にしない」という私の方が少数派でしたから…もちろん炎上リスクもあるし(抗議のメール、コメントがっつり来ましたよ)、私の生まれ故郷である柏市や東葛地方の放射線量について「安全」の文脈で書いても、「危険」の文脈でTwitter拡散され、愛する地元に風評被害を招くリスクも感じていました。

例えば、私は飛行機に頻繁に乗ります。機内で手持ちのガイガーで測ったら平気で2μSrv/h超えます。一方、柏周辺を測り回っても、2011年後半当時でさえ0.4μSrv/hを超えるところはわずか(今は0.1前後で平常値)…ブログでそんな書き方をしても、Twitterで「柏は0.4μSrv/hもある、超危険」みたいに拡散されて、数十万のフォロワーがいる人がリツイートしまくる。そんな伝わり方は本意ではないですが、でも私のコントロールが及ぶわけでもありません。

だから、最初に書いたエッセイでは、「具体的な地名を出すのを遠慮した」ほどです。

放射線~当事者と傍観者の違い(2011/6/20)

次のエッセイでは、勇気を出して、「柏」「東葛」という地名を出しました。何も後ろめたいことしてないのに、自分のやってることが、まるで地下結社みたいに思えたものです

放射能衆愚の国(2011/6/23)

原子力村 vs 反原発村~東葛より怒りをこめて(2011/8/16)

そういう時代を経てきたことを考えると、震災後3年経った今、自治体や国家政府のリーダーたちが、「正確でないことを広めるのはおかしい」と、ハッキリ言ってくれるのは頼もしい。私たちの社会も、それだけ落ち着いて、正気を戻してきたのでしょうね。

最後に、「デマりんぼ」に対して、言いたいこと

「お前ら、3年遅いんだよ!」
「3年前なら官軍、今だと賊軍」

交通事故のアナロジーでいうと、確かに事故の加害者は東電。でも、交通事故で痛がっている福島県民の傷口に塩を塗ったのが、小学館と雁屋哲…ぶん殴られるの当たり前だし、その位は覚悟しなくちゃならない。

戦う覚悟があるなら、専門家使って徹底的に調べろよ!それさえできずに「デマ&炎上商法」なんて、情けないぜ。

あと、いい歳した大人が、「デマ」を「真実」と強弁するなんて、漫画以前に単なるバカ丸出しだぜ。

あと、もう一つ言うと、

震災起こった2011年の時点で、私たちの政府がリーダーシップをとって、上のようなことを言ってくれたらよかったのになあ…

でも、時の政権・民主党の能力じゃ無理なのかも…

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日本女性はバナナなの?

こんにちは。Manachanです。

「美味しんぼ騒動」に引き続き、今回も時事ネタで。かる~いノリでいきます。

エジプト出身力士の大砂嵐が日本女性を「バナナ」と絶賛!エジプトで「美しい女子」の意味も批判され削除

まあ、外国語って、言葉の意味もニュアンスもそれぞれ違うから、難しいですよねえ。

たとえば、日本語の魚の名前「カツオ」は、イタリア語だと、超やらしい意味になってしまうらしいし、逆にイタリア語で数字の「85」は、日本語では、やらしく聞こえてしまう(意味が知りたければ…Webで調べてね)

日本人の男性「我妻幹夫」さん、中国語でいうと凄い意味になるよなあ。中国の女性「陳金玉」さんが日本に来ても恥ずかしいし、

英語でも、日本の「近畿地方」とか「キンキ・キッズ」ってどうなのよ?って話になるでしょうし…

でもって、前掲のニュースに戻ると…確かに、英語で「Banana」というと、外見(皮)は黄色なのに中身は白。つまり、「白人の真似したがる黄色人種」とか、「顔は黄色人種なのに言葉や考え方は完全に白人」みたいな意味があります。

私、英語圏オーストラリアに5年住んで、Bananaを主に後者の意味で、よく使っていました。

「私はこっち(オーストラリア)に来て長いけど、でも中学卒業まで台湾にいたし、中国語も読めるから、そんなにバナナじゃないわ」

「チャーリーなんて、3歳の時に台湾を離れて、ずっと英語圏で育ったから、完全なバナナよ…」

そんな感じで…同じような顔したアジア人同士で、よく話していたものです。

その意味でいうと、

英語の苦手な日本女子が、なぜバナナなのか、分からない

というのが、私の正直な実感です。

あと、もう一つの意味、「白人の真似したがる黄色人種」という意味でいっても、かつて日本がアジア圏で唯一の先進国だった時代ならともかく、今となっては、どの国のアジア人も、都会暮らしなら、皆、同じように見える。たとえば、

髪の毛を金髪や茶髪に染めるのをBananaというなら、バンコクの女の子だってBananaじゃん!

タイの首都・バンコクの街を歩くと、地元女子の3分の1くらいは、髪の毛を染めているように見える…

バンコクは、東南アジアの中心都市で、タイ国内の田舎、隣国のラオスとかカンボジアからみると憧れの大都会。だから、「おしゃれなバンコク女子の真似しよう」ということで、今はタイのヘアサロン、スタイリスト等が、隣国に大挙して進出中。

数年後には、間違いなく、ミャンマー、ラオス、カンボジアで、金髪茶髪女子が増えていることでしょう。その意味では、

Banana、アジア全域に増殖中…

ということになりますね。

バンコクの街角でスナップ、モデルは全員タイ人。金髪率高し…

ま、そんな感じで、アジアのどの国も、結局、似たようなもんなんだから、Bananaで目くじらたてなくってもいいじゃんと思います。

エジプトの言葉知らないけど、Bananaが「可愛い」という意味なら、ありがたく受け取ればいいんじゃないかな。

以前書いたエッセイ、「バナナと卵」も、あわせて読んでね。

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事実、真実、真理、解釈・・・物書きのつぶやき

おはようございます。Manachanです。

私は不動産投資家であり、同時に「ブロガー」という、物書きの端くれでもあります。ネット上では、ホームページ・ブログを通じて、1999年以来、15年間、文章を書き続けてきました。

私の文章は、不動産、マネー、地域考察など、社会の生きた現実を扱うことが多い。ですので、話の材料としては、「事実」、「データ」を多く使って、それらを自分なりに「解釈」した上で、読み物として楽しめるように、ストーリーを組み立てて書いています。

ここで、どうしても避けて通れないのが・・・「事実」、「真実」、「真理」といった、全ての文章に共通する概念。

物書きのなかには、「真実」や「真理」といった言葉を多用する人もいます。そこには必ず、作者本人の「思想・哲学」が含まれています。

私にも、思想や哲学がないわけじゃない(不動産教?)。でも、物を書くスタンスとしては、「事実」にこだわりたい、だからこそ「真実」や「真理」という言葉を使いたくない、という気持ちが強いです。

その辺を、ざっくり整理してみました。

「事実」 =「主観的事実」または「客観的事実」

「客観的事実」+「データ、分析、検証」⇒「真理」 (≒法則、科学的事実)

「主観的あるいは客観的事実」+「哲学、体験」⇒「真実」 (≒信念)

人間誰しも、「事実」(FACT)に基づいて思考します。

「事実」のなかには、「客観的事実」(誰の目からみても明らかなもの)と、「主観的事実」(人によって見え方が違うもの、あるいは一部しか見えてないもの)が含まれていますが、

そのうち「客観的事実」だけを積み重ねて、分析や検証を通じて、導き出した(導きだそうとする)ものが「真理」。これは「法則」とか「科学的真理」と似た概念です。また、その営みを「科学」と呼びますね。

一方、「事実」(主観的、客観的を両方含む)を、各個人の体験や哲学を通じて、昇華させた概念が「真実」と呼ばれるものだと思います。こちらは、「信念」や「イデオロギー」に近い概念ですね。したがって、

真理は、一つしかない(はず)
真実は、人の数だけある。

ということになるわけです。

一方、私の書き物のスタンスとしては、上の図でいう「真実」も「真理」も扱いたくない。重すぎるから・・・

むしろ、いくつかの「客観的事実」に基づいた私の「解釈」を皆様とシェアして、楽しく議論(無駄話?お茶話?)していきたいと思っています。

解釈とは、いくつかの事実を分析して、「たぶん、こうなんじゃないかな?」と思う。そんなレベルの「仮説」、「命題」みたいなものです。たとえば、

「柏エリアの人口が、過去5年間で140万人から145万人に増えた」というのは、客観的「事実」。

「柏エリアの昼間人口比率が、過去5年間で86%から89%」というのも、客観的「事実」。

「柏エリアに、東京大学、気象大学校、国立ガンセンター、科学警察研究所、のような国家機関が集積している」というのも、客観的「事実」

(※上記の数字はテキトーです。あしからず・・・)

それらを使って、たとえば、次のような命題を立てる、

「柏エリアが、埼玉の大宮エリアと同じく、北関東の拠点都市になりつつある??」

これは、「解釈」ですね・・・ここまで整理すると、ブログのネタとして使えるわけです。

そのネタを、読み物として面白くしたい。だから、

「10年後、柏が大宮になる日!!」

「20年後、首都圏北側で生き残る都市は、大宮と柏だけ??」

みたいな表題にするわけですね。このように料理すると、議論のネタとしても、読み物としても、また地域経済の学習題材としても、成立するわけです。

これらは、議論したところで、まだ「解釈」の段階を出ませんから、「真実」でも「真理」でもないわけです。

私、仰々しいこと好きじゃないから、これからも、「解釈」の領域で頑張って書いていきますね。

(追伸)タイムリーな話題を一つ・・・

いま、風評加害(フクハラ=福島ハラスメント)で話題になっている、「美味しんぼ~福島の真実編」・・・これは、「真実」と「真理」の違いを考える上で、格好の題材かと思います

作者(雁屋哲氏)にとって、福島の「真実」とは・・・科学的・客観的事実とは全く関係ない。自分一人にとっての「真実」、つまり「思想信条」に近いものだと思います。

おそらく・・・雁屋氏は、食べ物に畏敬の念を抱いていて、それが福島の地で、原発事故によって汚された。それが許せない。その怒りが彼をして、1年をかけた取材と創作に駆り立てたのだと思います。これは彼にとってはまさしく「真実」でありましょう。

しかし、福島に住む多く読者にとって、そんな「真実」は要らないんです。興味の対象は、むしろ「真理」(低線量被曝が、本当に危険で有害なのか等・・・)。もちろん、雁屋氏にそんな科学的検証などできないし、読者もそれを期待していませんが、

「福島」という実在の地名を使って、「放射能起因の鼻血」という、「真理」でないことを言いふらされた・・・それは、彼自身の「真実」に共鳴できない多くの読者(私自身を含む)にとって、単なる風評加害に他ならないわけです。

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ジャーナリスト、権力、風評加害

おはようございます。Manachanです。

食通漫画として有名な「美味しんぼ」が、一昨年末からビッグコミック・スピリッツ(小学館)に連載している「福島の真実編」・・・物語の舞台が震災・原発事故の大きな影響を受けた福島ということで、賛否両論が百出しているようです。

私、主張の是非はともかく、何十万もの部数を持つ大型週刊誌やコミック誌に登場する「物書き」の、「地域に対する想像力、デリカシーの欠如」は、昔から気になっていました。

つまり、自分が議論を展開する際に、「特定の地域」について言及するわけですが・・・自分の書いたものが原因で、その地域のイメージや産業に大きな影響を与えることがある。それに対して、想像力やデリカシーが圧倒的に足りないケースが、昔から散見される。そのおことを問題にしたいと思います。

今から8年前、2006年4月に、週刊「文芸春秋」に掲載された『ルポ下層社会』という文章がありました。テーマは「格差社会」。同じ東京のなかで、高級外車が走り回る富裕地域がある一方で、足立区の一部地域における、経済的貧困の実態が暗澹たるトーンで描かれていました。

作者はノンフィクション作家、佐野眞一氏。彼の文章には「足立区」や、「竹ノ塚」といった具体的地名が、名指しで出ていました。

この文章が出版された後、足立区役所が反論し、区民からも批判が寄せられました。たとえば・・・

「足立区の一部で起こっていることを、あたかも、区全体がそうであるかのように書いている」
「貧困問題は、足立だけではなくどの区にもあるのに、足立の事例だけを恣意的に取り上げている」
「格差社会の弊害として、普遍化して書くべきなのに、足立という一部地域の問題として書いているため
「足立=下層社会という烙印を押すことによって、格差社会を是正するどころか、固定しかねない」

あの文章・・「足立」を「福島」に、「貧困」を「放射能」に置き換えると、いま(震災後)、多くの「物書き」が無意識のうちに行っていることと、全く重なりますね。

当時の私、どちらかといえば、「一方的に書かれた足立区」側に同情する気持ちが強く、次のブログ日記を書きました。

下層社会と都市イメージ(2006/9/11)

あの時は、それなりに、一悶着あったんですよ。

足立区は、「一面的な報道だ」「理不尽で不当だ」などと反論し、文芸春秋と佐野氏に「足立区の見解」と題した抗議文を送付。同区は、「現状改善のため、学校のエアコン設置を進めるなど様々な努力をしていることまで否定された」と憤る。

こうした声に、佐野氏は、「あの記事を読んで、足立区の全てがそうだと思う人などいない。行政が努力をすることは当たり前」と一蹴した。

足立区の一部区議が、文芸春秋に対して記事の削除要求を出し、文芸春秋側は拒否・・・そんなこともありましたね。

行政、メディア、表現者・・・いろんな立場の、複雑な利害が絡むので、難しい問題だとは思います。私は、

佐野氏のような物書きは、尊敬しません!

なぜなら・・・彼みたいな物書きこそ、風評加害マシーンじゃないですか!

・ジャーナリスト、という、各地域の運営にコミットしない立場で、
・部数数十万の「大メディア」の威力を借りて、表現をする。
・その威力(情報伝播力)や、地域に与える影響に対して、全く無自覚。
・むしろ、自分が正義を行っているみたいなスタンスだから、軌道修正もきかない。

ああいうの・・・もう少し、何とかならんもんかなあ。私の地元だって、すげー、迷惑かけられたんだから。

とはいえ、今は週刊誌メディアの力が急速に弱まっているから、あと10年くらいの辛抱なのかもしれません。それから後は、私たちブロガーの天下かな?

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多民族国家と日本の針路

こんにちは。Manachanです。いま、香港国際空港から、帰国の途につくところです。

当地・香港では、日本の不動産に熱い視線が集まりつつあります。香港人は不動産投資対象として、世界中を見ているわけですが、彼ら曰く、国際的な相場水準からみて、東京の不動産価格は、信じがたいほど安い!

東京ほどの先進国巨大都市で、しかも池袋や新宿といった中心地の中古ワンルームマンションが1000万円を切る価格で売られ、賃貸に出せば7~8%の利回りは取れる…しかも2020年東京オリンピックに、アベノミクス効果、そして年20万人移民受け入れ政策。ここまで材料が揃えば、上がらん理由はないと彼らは考えるわけですね。

香港では、同じような中古狭小ワンルームが平気で4000~5000万円の値がつき、利回りも2%がせいぜい・・・みたいな世界ですからね。しかも香港人にとって、日本はノービザですぐ行ける土地だし、国のイメージも良好。そりゃ、いま東京の不動産買いたくなるだろうなと思いますよ。

ところで、今回の日記は、香港人パートナーが日本不動産投資すべき理由としてあげている要因の一つ。

日本政府の年20万人移民受け入れ構想

について、私見を述べてみたいと思います。

この計画(?)、安倍政権内では当然議論されているでしょうが、当然、日本国民のコンセンサスが取れてる問題ではないし、本格的な議論になってもいませんね。

国民的議論のフェーズになれば、ま、順当にみて、日本の有権者の80~90%は反対するでしょうし、それに必ず、政争の具になるでしょうから、自民党政権としても、やるなら目立たぬように、なし崩し的に既成事実をつくっていくしかないでしょうね(外国人富裕層や高学歴者の受け入れの方を大々的に宣伝して、単純労働者の受け入れは、いろんなカテゴリに分散して見えにくいようにするとか…)。

ま、議論したところで、結果は見えているでしょう。

・「経済、国力重視」の賛成派が少数。

・「社会問題、治安懸念」の反対派が多数。

・賛成派、反対派とも、「多民族が共存する日本というリアリティ」を欠いたまま、空疎な議論に終始する。

・結局、日本国の進路や方針はうやむやにされたまま、既成事実だけが進んでいくでしょうな(例.東京下町や都県境エリアへのアジア系外国人集住とか…)。

この問題に対して、私が、何かをできるわけじゃないですが…オーストラリア、米国、中国といった、多民族国家で長年暮らした経験を活かして、「多民族国家のリアリティとは何なのか?」という、ささやかな問題提起くらいはできるかなと思っています。

地球上の存在する多くの国は、大陸上にあり、複雑な民族構成を持った多民族国家です。今回行った、タイ、カンボジア、ラオスといった、東南アジアの国々も、規模は小さいながらも、内実は、紛れもない多民族国家。

たとえばタイ…首都バンコクで話される言葉はタイ語ですが、この国の辺境に行くと、ラオ語とかクメール語、ビルマ語の話者が多くなり、ラオスやカンボジア、ミャンマーという「地続きの外国」に、自然につながっていきます。タイ国民でありながら、バンコクのタイ語が上手に話せない人たちもゴマンといますし、そもそもタイ国民の約半分を占める北東部や北部の住民は、バンコクの人よりも隣国ラオスの人との方が、言語的にコミュニケーションしやすいという。

さらに、バンコクに住むタイ人も、タイ族もいれば、潮州系華僑、客家系華僑…いろんなグループがある上に、田舎から来たラオ系、クメール系、ビルマ系等が入り乱れる。分類上は皆「タイ人」になるけど、文化的にはいろんな違いがある。タイから出て、隣国に行っても、各民族が入り乱れた状況は変わらない。特にミャンマーは、タイ以上に複雑な民族構成の国ですし。

こういう国にいると、

・同じ国、同じ街に、同じ地区に、いろんな民族が暮らしているのは当たり前

・国境線というものは、複数民族が入り乱れるなかで、人為的にひいた線に過ぎない。

・国家と民族は、当然ながら、一致しない。一致させるのは無理。

という、地球上の多くの国で当たり前の常識が、皮膚感覚として理解できますし、

・国家と言語、民族の境界線がほぼ一致する日本という国は、世界的にみて、かなり珍しい

ということも、肌で理解できるわけです。

ですが、日本でしか暮らしたことのない日本人に、このことを説明して、理解してもらうのは難しい。たとえ頭では理解できても、肌感覚で理解するのは至難の業。こればかりは、日本の外で暮らして、いろんな民族と付き合ってみないと、リアリティとして認識するのは難しいでしょうね。

もう一つ言うと、多くの日本人にとって、外国人が相当数、日本に定住することは、大陸国家の民以上に、大きなストレスがかかることなのかもしれません。

タイや中国を含めて、大陸の多民族国家では、同じ都市内で「民族ごとの棲み分け」が、当たり前の現象になっています。お互いに文化的な差異が大きく、コミュニケーションが難しくても、住む場所が物理的に離れているから、お互いに無関心でいられる、というわけ。

でも日本の都市では、棲み分けは難しいでしょうね。島国という閉鎖空間で城壁も設けない歴史を経てきたからか、金持ちも庶民も、同じ地区に渾然一体として暮らすのが日本の伝統。外国人が定住しても、結局、日本人と同じアパートやマンションに暮らすことが多くなるでしょう。当然、お互いにストレスを溜めることも頻発するでしょう。

上記もろもろの理由から、日本において「移民受け入れの是非」という議論は、まともに成立しにくい。賛成、反対という立論はできても、日本人の圧倒的大多数が、「日本が多民族国家になる」イメージを、リアリティとして認識できないのですから、結局、現実感覚を欠いた、空疎な議論に終わってしまう


成派と反対派(=慎重派)、お互いが、自分に都合の良い、外国の事例を断片的、恣意的に取ってくるだけで、到底、議論として噛み合わないでしょうね。せいぜい、テクノロジーや経済の視点を欠いた、「原発の是非」の議論みたいになるだけでしょうし、日本国のグランドデザインを描くようなネタには到底なりえないでしょう。

どうすればいいのか…私にも分かりません。ま、自分のできる、ささやかな貢献を、やり続けていくしかないですね。

・東京下町という、日本で一番最初に、実質的な多民族社会になりそうなエリアに暮らし、国際結婚&多言語家庭を営む経験を、読者の皆様とシェアする。

・世界中、いろんな国に出かけていって、現地の不動産投資家と等身大の付き合いを重ねて、その経験を、読者の皆様とシェアする。

それ位かなあ・・・ま、難しい問題っすね。

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