多文化社会を怖がる人と、大丈夫な人

こんにちはManachanです。年の瀬クリスマス時期、家族とじっくり自宅で過ごしております。慌ただしい出張もなく、仕事もとりあえず一段落しており、ブログ更新頻度も上がりますね。今回は、欧米主要国に遅れること数十年、いま日本が直面しつつある「多文化社会へのチャレンジ」というテーマで書きますね。

 

多文化社会(Multi cultural society)とは、「様々な文化的特徴を有する民族が、お互い多様性を尊重し平等に共存していく社会」と定義されます。

今の日本、特に都市部ではすでに様々な国籍、出身国の人々が日本人と一緒に暮らしている実態があり、客観的にみて単一民族社会とは言い難い状況になりつつあります。私の暮らす東京都江東区でも、総人口に占める外国籍者の割合が、2018年10月1日5.58%→11月1日5.65%→12月1日5.68%と、毎月のように上昇を続け、すでに人口52万区民のうち3万人が外国人という社会になりました。

江東区は外国人総数で東京23区中5位、人口比率で7位…東京のなかで外国人が特に集中する特殊地域とはいえません。23区全体でも外国人比率が4.8%(955万人中46万人)ですから、江東区の数字と大差ありません。

この社会におけるマジョリティである日本人(≒日本民族、日本国籍者)がマイノリティの存在を隣人として認め(当然その逆も然り)、お互いの文化を尊重するスタンスを取るならば名実ともに多文化社会といえますが、現時点ではその途上といえましょう。

 

いま、入管法改正をめぐる国会審議で単純労働者受け入れの是非が問題になっていますが、この法案が通ろうと通るまいと、身辺に外国人が今後さらに増えるのはほぼ既定路線であろうと、地域住人として冷静にみています。

むしろ私の関心事は、「日本人側の多文化対応力を高める」ことと、「近所の外国籍児童が日本語を当たり前に学べる環境を整える」ことです。これは「外国人労働者受け入れの是非云々」みたいな「あるべき論」ではなく、「どっちみち東京は外国人増えるんだから、それに対応しないとね」という現実論です。企業経営者としていえば、今後AIの時代になり、自動運転も自動翻訳も無人店舗も当たり前な時代になっていくだろうから、それに対応しつつビジネス上のポジショニングを考えていくのは当たり前ですが、結局それと同じことです。

 

「日本人側の多文化対応力」という意味では、特に子供世代の能力や柔軟性に驚かされます。いま、子供たちの通う小学校の野球大会とか行くと、チームに明らかに日本人と風貌が違う児童や、日本語が母語じゃなさそうな児童が少数含まれているものですが、彼らにルールやプレイを易しく分かりやすい日本語で説明できる子供たちが相当数居るのです。

また外国人ではなくても、吃音(どもり)があったり、聞き取りや発声が難しかったりと、「皆とちょっと違う問題(Learning Differences)を抱えるお友達」をどうサポートしていくかという授業で、子供たちが次々と挙手して、「絵を書いて説明してあげる」、「口をゆっくり動かして発音してあげる」、「変な聞こえ方しても笑わないで辛抱強く聞いてあげる」みたいな意見がどんどん出て、感動しました。

私たち大人は、多分、学校でそんなこと学びませんでしたね?むしろ、「皆に合わせるのが吉」、「少しでも違えば笑う、茶化す、弱そうならいじめる」みたいな強い同調圧力のなかで生き、また他者にもそれを強いてきた場面が多かったと思います。それに比べて、今の子供たちのなんと、柔軟で優しいことか。彼らはすでに「多文化社会の住人」という気がします。

 

その意味では、大人たちの方がむしろダメダメという印象です。多文化社会にチャレンジする前に白旗あげてる大人の、なんと多いことか…

たとえば、あまりに内容が粗雑すぎてコメントする気にもならんけど、ある有料メルマガ記事から引用します。

>日本人の出生が94万人で死亡が134万人、1年間で約40万人近くも消滅している。

>2025年までに50万人超の外国人を入れようとする施策はより無謀なものだ。移民の大量流入を歓迎した欧州はどうなったのか。文化的な軋轢や対立や衝突が先鋭化して国が分断されてしまうほどの問題をも生み出したではないか。

50万人の追加受け入れ云々以前に、日本にはすでに外国人が260万人住んでいます。また日本人が年間40万人減った年に外国人が15万人純流入しています。上記は総務庁の資料を見ればすぐ分かるはず。その現実に目を背けた挙句に、日本とは全く社会歴史背景の違う欧州の状況を持ち出して的外れな反対意見を述べているだけです。

 

私思うのです、こういう、多文化社会にチャレンジしようとしない大人が、これからの時代、どんどん取り残されていくのではないかと…。

だって世界を歩けば分かりますもん。世界の大都会ロンドン、ニューヨークとまでは言わない、ヨーロッパのデュッセルドルフとかウィーンとかバルセロナとか、英語圏でもない国の中規模都市だって、移民はいまの東京以上にたくさん居ます。ソウルや台北みたいな近隣アジアの非英語圏都市だって、人口比率でいえば少なくとも今の東京程度には外国人労働者や移民が居ます。

東京のような、世界的にみてトップレベルの都市、オリンピックを2回も開催し、世界中から簡単にアクセスできる大都市が、今後どうやって、外国人住民をシャットアウトできると考えるのでしょう?それが体の良い思考停止だということは、今後ますます明らかになると思いますよ。

 

ブロックバスターなどビデオレンタル大手はNetFlixにやられた、トイザらスやなど小売大手はAmazonにやられた。世界中の多くの国で、タクシーはUberやGrabにやられた…将来、かなりの確率で起こることはちゃんと予測して、先手を打っていくべきで、変化に対応する勇気のない人は市場から退場していく。それと同じく、

今後、東京が多文化社会に向かう。それがかなりの確率で起こるのならば、早めに対応力をつけようと考えるのは自然な考え方だと思います。子供たちの世代は、結構、それができているのかもしれないです。

最後に、今後の日本政界で、多文化社会のオピニオンリーダーとなりそうな自民党・馳浩さんの文章を引用します。

日本語教育、国が責任 社会を分断しないために

 

>同じ社会で暮らしていくためには、まずコミュニケーションだ。災害時に市町村からの避難指⽰などがよく理解できない。あるいは教育現場で⼦どもがけがをしたり病気になったりした時に状況が伝わらない。⼀番⼤事な意思疎通ができる環境を⽇本語教育を通じて担保していくことは国の責任だ。

>⽇本語をただ教えるだけではなくて、その外国⼈の属する⾔葉、⽂化、アイデンティティーも⼤切にしなければならない。⾃分は何者か、という理解は⾔葉の理解があってこそだ。そのなかに宗教であったり、⾷⽣活であったり、年間⾏事などが⼊ってくる。それをふまえて⾃分の存在意義を理解するとともに、いま、⽣活している⽇本社会とどううまくやっていくかということが求められる。

>だから⺟語を⼤切にしながら、⽇本社会で暮らしていく上で必要な⽇本語教育、というふうに分けて考えるべきだ。そうしたことを踏まえた指導、教材も求められる。

>わかりやすい⾔葉でいえば「根無し草」では⼈間はいけない。

>⽇本語を学んでもらう⽬的は相互理解だ。相互理解というのは他者を尊重すること。⾃分が何者なのか、理解したうえで相⼿の⽴場も理解し、尊重する。⾔葉を学んで理解を深めることで、お互いの違いも認めることができるようになる。そして同じ社会で共に暮らすためには、違いを認めた上で受け容れる寛容の精神が必要だ。

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