こんにちはManachanです。いまオーストラリア出張中で、ケアンズからゴールドコーストまで飛んできたところです。
一昨日から、リオのオリンピック始まりましたね。ここオーストラリアも日本と同様、連日のメダルラッシュで盛り上がっています。オリンピック開会式のセレモニーは、オーストラリアのTVで見ましたが、とてもクリエイティブで良かったです。ブラジルならではのユニークな発想に溢れてましたね。
一方、運営面や環境・治安に関しては、各国で極めて評判悪いですね。選手村でトイレの蓋がないとか、他人の排泄物が逆流してきたとか、オリンピック会場に行く地下鉄が直前になっても開通しないとか、選手村付近で発砲事件があったとか、強盗に拳銃で脅されてスマホ盗られたとか…あと、下水垂れ流し、投棄されたソファや水死体まで浮かぶ汚い海がセーリング競技場になっていることも問題視されるなど、日本など先進国では「ありえない」レベルの問題が続出しているのも、今回のオリンピックの特徴といえましょう。
リオのオリンピックは、南米大陸で初の開催。南米のなかで、面積・人口とも飛び抜けて大きな国ブラジルが、その栄誉を手にしたわけですが、いま同国は、100年に一度といわれる深刻な経済不況に苦しんでいます。多くの国民が失業・貧困にあえぐなか、「身の丈にあわない」大金をつぎ込んでの開催になりました。公務員や警察官、工事現場のワーカーへの給料が遅配・欠配になるほど酷い状況らしく、それでは各方面で綻びが出るのも無理はないでしょうね。
リオ・デ・ジャネイロは2009年の選考会で、マドリードや東京を破って開催都市の座を射止めました。当時のブラジルは経済好調、「21世紀の経済大国」として、前途洋々にみえましたが、2013年の逆オイルショックで資源価格が暴落し、ブラジル経済はにわかに暗転します。国を率いるリーダーにも恵まれず、その後数年は巨大汚職や治安悪化など、不運続き。通貨レアルは暴落中で、経済成長率は昨年も今年もマイナス2~4%になると予測されています。
日本も景気よくないですが、ブラジルのように、人口が大きく増えている国でマイナス成長が続くのはもっとつらいでしょうね。養うべき人口が多い状況なのに仕事がない。可処分所得がどんどん下がる上に、通貨も暴落してるから輸入物価は上がりインフレが止まらない。生活苦ゆえ犯罪に走る者も増え、有能な人ほど国を出て海外に活路を求める…
ここまで厳しい状況下でのオリンピック開催は、「史上初めて」ともいわれます。まさに傷だらけのオリンピック。リオ現地もIOCも、運営側は「綱渡り」の日々でしょうね。
ところで私にとって、ブラジルは結構身近な国です。ここオーストラリアはもちろん、日本でも、北関東や東海地方の工業都市では、ブラジル出身者が相当数暮らし、地元在住の皆様には彼らはそれなりに身近な存在かと思います。
私は1997~98年にかけて、群馬県の館林に住んでいました。館林には工場で働くブラジル出身者が少なからず暮らしていましたが、隣の「(邑楽郡)大泉町」や「太田市」に行くとさらに多く、街の一角が「ブラジル・タウン」と化していました。
特に大泉町は、町の人口の1割以上がブラジル出身者。国道354号バイパスにほど近い「ブラジリアンプラザ」を中心とした一角が、在住ブラジル人たちの憩いの場となっており(地元の日本人がほとんど居ない!)、プラザの周りには、ブラジル人御用達の食材店やレストランが軒を並べていました。近くにはクラブもあり、夜12時頃からブラジル人が三々五々集まって、テンポの良い曲をガンガンかけて夜通し踊り明かす場所もありました。
当時、まだ20代の私は、館林の田舎暮らしを退屈に感じ、エネルギーを持て余していたので、金曜日の仕事がひけた後、毎週のように大泉のクラブに行き、ブラジル人たちと共に踊り明かしたりしたものです。
北関東の工業都市にブラジル出身者が住み着いたのは、1990年頃のこと。彼らのルーツは、明治大正期に日本から移民した人々です。その2世、3世が、戸籍を根拠に、日本への在留就労許可を与えられ、当時国情が不安定だったブラジルを後にして、大挙して地球の反対側・日本へDekasegui(出稼ぎ)にやって来ました。
彼らの多くは、(日系移民が集中する)サンパウロ周辺の出身。日系とはいえ2世、3世ともなると、地元の白人や黒人と混血して、日本人っぽく見えない人も少なからずいました。彼らの日本語能力も様々で、ペラペラの人もいれば、日常会話にも苦労する人もいました。概してポルトガル語でないと意思疎通が困難なケースが多く、大泉や太田の役所ではポルトガル語ができる臨時職員を急遽雇ったりしたものです。
当時の私は、ブラジル料理を食べに、ブラジリアンプラザに足しげく通いました。そこにはブラジル出身者向けの掲示板があり、「サンパウロの不動産物件情報」がたくさん載っていました。邦貨換算1000万円程度の家が多く、日本でお金を貯めて、故郷サンパウロに帰って、より良いエリアで良い家に住みたいという、出稼ぎ者の意気込みを感じました。
そんな大泉でも、歳月は流れます。2005年頃からブラジル経済が好転すると、出稼ぎに出る者が減り、リーマンショック後になると日本の工場で雇い止め等が頻発し、仕事のなくなった彼らの多くはブラジルに帰っていきました。
時を同じくして、大泉プラザの不動産広告から「サンパウロ物件」が姿を消し、今ではほとんど、「群馬県太田市や伊勢崎市の、1800万円くらいの戸建住宅の広告」ばかりになっています。
1990年代に日本に出稼ぎにやってきた者も、今ではブラジルに帰った者と、そのまま日本に定着する者に二極分化してきたのでしょう。「ポルトガル語で書かれた、群馬県内の戸建住宅の広告」には、日本に家族で住み続けることを選択した彼らの意思が見てとれます。
群馬県に住む、ブラジル出身の友人の言葉がとても印象に残っています。「母国は不安定、私は子供の将来のために日本に住み続けたいんだ」と。
そしていま、ブラジルの国情が再び、不安定になっています。レアルの暴落で、2015年に国民平均のGDPは米ドル換算で「4桁」に落ち込み(8688ドル)、日本と約5倍の差になっています。日本の工場労働で得られる賃金が、レアル換算すると結構な大金になる時代を再び迎えています。
群馬県の大泉町や太田市、栃木県の小山市、静岡県の浜松市、愛知県の豊田市、岐阜県の美濃加茂市…といった工業都市で、ブラジル出身者の数がまた増える時代を迎えるのかもしれません。これらの地域で賃貸経営する方は、外国人OKの賃貸住宅でブルーオーシャンを狙えるのかもしれませんね。