おはようございます。Manachanです。今日の日記は、久々の語学ねたで。
私が住む東京は、日本国ではピカイチの国際都市。23区では外国人が住民全体の4~5%を占めますが、それでも、言語環境的には日本語が支配的な世界です。東京に住み、働き、子育てするとなると、実際問題、日本語の読み書き会話ができないとかなり不便。英語ネイティブでさえ、東京暮らしが長くなれば、多くは必要に迫られて、日本語を学ぶことになります。
そして、日本で生まれ育ち、日本以外の国で暮らしたことのない人の大部分は、実用的な意味では「日本語オンリー」の「モノリンガル」(単一言語話者)です。
そんな日本国・東京にあって、私は珍しく、日々、複数の言語を使う「マルチリンガル」な環境に身を置いています。私は国際結婚しており、家に帰れば、日本語、英語、中国語(北京語)が飛び交います。私と妻は中国語で、私と子供たちは日本語で、妻と子供たちは英語で、それぞれ会話するからです。我が家では毎朝、オーストラリアにある妻の実家とスカイプでつないで話しますが、そこでの会話は英語と中国語。私も妻も、二人の子供たちも、誰もが複数言語を使い、相手によって使う言語を変えて話します。
外に出れば、日本語はもちろん、英語も中国語も、仕事で毎日使います。その他、仕事の必要に応じて、新たな言語を学んでいます。かつては韓国語、今はタイ語とベトナム語です。毎週、東京・飯田橋にあるアジア系語学学校に通い、「タイ語中級」と「ベトナム語初級」クラスにいますが、先週、こんなことがありました。
学校の受付にいるのは、普段は日本人なのですが、今回だけなぜか、タイ語の先生が受付に座っていました。この先生は日本語できますが、「タイ語中級クラス」の生徒にはタイ語しか使わないので、会話は当然「タイ語のみ」になります。でも、私が今回行くのは「ベトナム語初級」教室。
ベトナム語教室に入るまで、ずっとタイ語で話していたので、私の頭のなかはタイ語モード。クラスが始まっても、ベトナム語の単語ではなくタイ語が出てきてしまう。しかも、隣のクラスで「タイ語」や「韓国語」をやってて、その音声が漏れ聞こえてくる。私の耳はどうしても、「タイ語」や「韓国語」を拾ってしまい、ベトナム語の単語が出てこない。頭をベトナム語モードに切り替えるまで、15分くらいかかってしまった・・・
日々、そんな暮らしを送っている「TOKYOマルチリンガル」な私からみると、この国の大部分を占める「モノリンガル」な方々の発想が、良くも悪くも、不思議だなあと感じることが多々あります。たとえば、
1)大金かけて子供を英語の幼稚園・小学校に通わせるのは、なぜ?
都内では近年、「バイリンガル幼稚園」、「バイリンガル小学校」をウリにする、学校と英会話教室を兼ねたような教育施設が増えています。学費は結構な金額で、幼稚園の場合、私の知る限り月謝は最低8万円から・・の世界。
日本国内では英語環境そのものが貴重。家庭内で日本語の環境しかない親が、せめて「子供には英語を」と思い、お金をかける気持ちはよく分かりますが、日常生活自体がマルチリンガルな私からみると、「英語環境」は「身の回りに、当たり前にあるもの」で、水や空気のように自然なもの。そこにお金をかけようという発想にはなりません。
地方出身で、「アパート借りると駐車場がついてくるのが当たり前」な環境で育った人が、東京に来て、「駐車場だけで月3万円以上かかるのに驚く」に近い感覚かもしれませんね。
2)「Manachanは語学の天才だから・・・」と言われるのは、なぜ?
私が複数言語を使いこなすことは、日本語モノリンガルの方々からみれば、「特殊能力」に見えるのかもしれません。いろんな場面で、「Manachanは語学の天才だから…」と言われます。言外には、「俺は天才じゃない、フツーの日本人だから、日本語だけでOKよ」みたいな意味が込められています。
確かに、複数言語を実用で使えることは紛れもない「スキル」ですが、私自身に特殊能力が備わっていて、平均的な人より格段に早く外国語を覚えられる、ということではない気がします。それより、「普段、複数言語を使う環境で暮らしている」という「環境要因」の方が大きい気がします。
世界には、日本や中国、英語圏のような「比較的モノリンガルな社会」がある一方で、欧州の小国、フィリピン、マレーシア、シンガポールのような「マルチリンガルな社会」もたくさんあります。後者の国々では、多くの人が当たり前に複数言語を使いこなすので、一般の日本人からみると「すげー!」と思ってしまいますが、それは特殊能力なんじゃなくて、生活の必要に迫られて日常的に複数言語を使っているからできるわけです。語学習得は能力というより、経験。要は「場数を踏む」ことによって身につくものです。
3)「通訳、翻訳、翻訳機を使えばいいじゃん!」と安易に考えるのは、なぜ?
モノリンガル日本人のなかには、外国語(特に英語)学習に興味・関心のある方と、関心が乏しい方の両方がいます。後者の方々になるほど、「外国人とコミュニケーションする時、自分が外国語できなくても、おカネかけて通訳・翻訳を雇えばいいじゃん」あるいは、「あと5年もすれば、Googleが翻訳機をつくってくれるから、それ使えば世界中どこでも一発でOKじゃん!」という発想になりがち。
でも、マルチリンガルの私から言わせれば、彼らの通訳・翻訳者、翻訳機に対する大きな期待は、結局、失望に変わるのではないかと思います。なぜなら、彼らの発想には、「マルチリンガルの能力を使って、モノリンガルが満足するレベルの仕事をさせる」という前提があるわけですが、
私を含めて、マルチリンガルの言葉の使い方って、往々にして、モノリンガルのような厳密さには欠けるんです。極めて実用重視で、「100%正確じゃなくても、要は、意味が通じればいいじゃん」と割り切って考えることが多いし、「行間を読む」みたいなことは往々にして苦手だし、面倒臭い。通訳・翻訳に対する、モノリンガルの期待値が100とすれば、たぶん我々マルチリンガルは60~70%しか満足させることができないんじゃないかな(それができる、プロの翻訳・通訳者の方もいますけど・・・)。
Googleが多言語翻訳機を開発するにしても、そこで使われるのは結局、我々マルチリンガルの言語能力や知識。でもって、我々の発想自体が「大づかみ」で「実用重視」なので、翻訳精度の点で、「マルチリンガルの頭脳を大きく超える」ものは、たぶん出てこないと思う。したがって、「日本語しかできない人」が、「日本人同士で行っているレベルの会話」を、「外国人との間でも期待通りにできるようになる」ことを、翻訳機に期待することは当面無理だと思います。
逆に、私たちマルチリンガルの発想は、「自分が外国語能力ゼロのまま、翻訳者・通訳者にコミュニケーションの全てを委ねてしまうのは恐ろしい」と考えます。物見遊山ならいいけど、ビジネスをするなら、少なくとも相手の言ってることがある程度分かるようにならないと不安で仕方がない。その不安を感じる位なら、時間とお金をかけて言葉を学んだ方が早いと考えるのです。
4)「英語ができるようになってから、次の外国語」と考えるのは、なぜ?
近年、海外(特にアジア圏)で仕事をする日本人が増え、彼らの語学習得に対する意識は高まっています。それは喜ばしいことですが、多くの人が、「まず英語ができるようになってから、次の外国語(中国語や、東南アジアの言葉)」と言います。アジア圏の多くの国で、ビジネス共通語は結局英語なのでその気持ちは分かりますが、マルチリンガルの私からすると、「もう少し、柔軟な考え方してもいいんじゃいかな~」と思ったりします。
なぜなら、アジア圏には、日本人にとって、英語よりずっと習得簡単な言語がたくさんあるのです。韓国語がその筆頭だと思いますが、その他、インドネシア語(≒マレー語)、中国語、ベトナム語なども、少なくとも英語に比べれば短期間に習得できると感じます。必要に応じて、そちらの言語を先行させてもいいし、英語と並行してもいいし・・・比較的習得簡単な言葉からスタートすることで、外国語学習が楽しくなったりする効果は、やり方によっては確かにあると思うのです。
以上、東京に住む圧倒的少数派マルチリンガルの「ぼやき」でした。
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