親子アスぺ日記…日米で一世代の差

おはようございます。Manachanです。

右の写真は、近所の図書館から借りてきた「自閉症、アスペルガー」関連図書です。今はこれだけの書籍を、手軽に借りて読めるんですね。

 

他の日記にも書いてますが、私はこれまで「他の人とちょっと違う」自分を持て余し、職場や社会生活、家庭生活の悩みを抱えながら47年間生きてきました。その私が「アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)」という診断名を得たのは昨年のことです。アスペルガーとは、人類の9割以上を占める「通常の脳」(Neuro Typical)とは違う、脳機能の特性を指します。一言でいうと、「知的な遅れのない自閉症」。

私の「ちょっと風変りな脳」が、10歳の娘ソフィアにも伝染(?)しているようです。娘は小学4年生、普段は通常学級に通いながら、一週間に一度、隣の学校に「通級」して、専門の先生方の指導のもと、社会性のトレーニングや、それぞれの児童の特性にあった学習計画(Individual Development Plan)に基づく指導を行っていただいてます。

「通級」は江東区の制度で、無料で受けられます。私の小学生時代は、「通常学級」と「特殊学級」(今でいう特別支援学級)しかなかったので、やはり、隔世の感がありますね。

 

ソフィアにとって、学校で一日過ごすというのはかなりの重労働であるらしく、午後3時頃に家に帰ってくるとこんな感じになります。

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夕食前の決まった時間、娘と息子に宿題やらせてますが、特に娘に宿題やらせる作業は親にとっても大変な負担です。やりたくなければ、頑としてやりませんから(私の子供時代と似てます・・・)。ですが、学校の決まった宿題は嫌いでも、自分の好きな勉強は進んでやるので、そういう方面を伸ばしていきたいと思います。

娘にとって救いの一つは、いまのクラスに5人ほど、仲の良い女の子の友達がいて、普段から一緒に遊んだり、交換日記をやっていることです。

私の小中高生時代は、一部の時期を除いて、友達もほとんどおらず、寂しかったですからねえ。特につらかったのが高校時代。修学旅行で京都奈良に行く時、仲の良い友達同士5~6人でグループをつくって、自分たちでコースを決めるのですが・・・先生方からみれば「子供たちの自主性を育む素晴らしい指導」に見えても、どのグループにも入れない私にとっては苦痛以外の何者でもなかった。

あの時、私は「修学旅行でどのグループにも入れない」悩みを、勇気を出して先生に相談したのですが、結局、私は適当なグループにあてがわれて、アフターケアもなくそれでおしまい。私は3日間、京都奈良の各地でグループの皆と一言も口をきかないまま、金魚のフンみたいについていっただけ…孤独で不条理でつらかったです。

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京都の旅館に泊まった時、クラスメイトと些細なことで口論になり、熱い湯豆腐を頬に投げつけられました。その夜、寝静まった時、例の湯豆腐を投げつけた男が、何人かの仲間にこう言ってたのを聞きました。

「こいつの、親の顔見てみてえよ・・・一体どんな教育してるんだろう?」

当時は、1980年代。集団行動に馴染めない脳のタイプがあることは、日本では知られていませんでした。学校社会のなかで、私はクラスメイトにも先生にも、「常識のない、変な奴」という乱雑なキーワードで認識され、たびたび軽視されてきました。クラスでトラブルになった時は、両親(特に母親)の子育てのせいにされました。母もつらかっただろうな・・・

小学5年の時、近所の母親たちが、「マナブくん変よね」、「どんな子育てしてるのかしら」と噂話しているのを聞いたことがあります。当時は、その場で言い返すだけの能力がなかったので、家に帰って母親に、涙ながらに悔しさをぶちまけました。

「ありがとう、お母さんのために泣いてくれたんだね」と励ましてくれたけど、その母とて、アスペルガーとか自閉症スペクトラムという言葉を当時は知らず、どういう支援をすれば良いか分からなかったことでしょう。

その後、社会人になっても、寝ぐせのまま出社して叱られたり(自分では、全然、気づかないんだもんね…)

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上司に怒られても、なぜ怒られてるのか分からないことがたびたびあったし(この絵は、頬づえをついて失礼…という意味)。

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いろんなことがありましたが、曲がりなりにも今、まともな社会生活を送れています。仕事のなかで、自分の得意分野を生かせたという面もあったし、それ以前に、まともな家庭に生まれ育つことができた、という幸運が大きかったのかも。

もし私が、父親が暴力を振るったり、両親揃って育児ネグレクトするような家庭に生まれていたら、どうなっていたか・・と思うと、想像するだけで恐ろしいです。実際、発達障害児のなかで、DVやネグレクトなど問題のある家庭で育つ者は少なくないようです。

 

もし私が、アメリカなど英米圏で育っていたら、どうなったか?というと、また違った人生になっていたのかもしれません。

いま、発達障害児(特に自閉症系)にかかわる多くの日本の教育・療育機関が使っているプログラムは、「TEACCH」(Treatment and Education of Autistic and related Communication handicapped CHildren 、自閉症及び近縁のコミュニケーション障害の子どものための治療と教育)をもとにしていることが多い。

このTEACCHは、1971年に、アメリカのノースカロライナ大学、チャペルヒル(Chapel Hill)校で開発されたものです。

私は2005年に、ノースカロライナに住んでいた時期があります。我が家からチャペルヒルまで、クルマで15分と近く、食事とかでよく行ったものです。こんな身近な場所で、世界の先駆けとなる自閉症児療育プログラムが、1971年という早期に開発されていたことに、ただただ驚きを禁じえません。

なぜなら、日本で発達障害者支援法が制定されたのは2004年。自閉症やアスペルガーに対する療育プログラムが日本に導入されたのはその後ですので、日米で30年以上、約1世代のタイムラグがあるのです。そう考えると、

・もし、私が当時のアメリカで育っていたなら、今ソフィアが日本で育つのとほぼ同じ状況だったのかもしれないな。

・そう考えると、私は日本という国に、やや早く生まれすぎていたのかもしれない。

 

とはいえ、これは結果論。人間はそれぞれ問題を抱えながら、それぞれの時代を、懸命に生きなければならないのだから。

 

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